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A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building

或る兼業大家"X1"の憂鬱

エピソード4

プロローグ

 その夜は雨。星も月も無いざあざあ振りで、その場にいるのは一人だけ。フードが顔を隠していた。
 その人物は服装を黒一色に染め、X1が経営する4階建て集合住宅――甲物件の裏手に佇んでいる。
 悠々と甲物件のエントランスへと歩き出すその黒ずくめの人物の手には、その服と同じ漆黒の凶器が握られていた。
 黒ずくめの人物は足音を殺す必要なんてない。雨音が、全てをかき消してくれる。
 だから、てい家が住む208号室の前にも、辿り着けてしまう。だから、扉を盗んだ合鍵で簡単に開けてしまう。
 だから、208号室に、寝ていない住人がいることに気づくのが、少し、遅れた。
 空気を切り裂く雷光が、光る。凶器を振り翳す黒ずくめと、抵抗する成人男性。
 だが、その死闘はすぐに終わる。犯人の目に映るのは、いつだって、後悔と贖罪の念だけ。

エピソード4 脱輪家族の解体



 X1はその日も頭を抱えていた。
「X1さん! 朝ごはん、出来ましたよ!」
 無論、X1は賃貸経営の件で悩んでいるのだ。解決できない問題について悩むのはX1にとっても無駄。
 だから、X1は出来る限り、Y1について考えないようにしていた。
「X1さん! 行ってらっしゃい。お仕事、頑張ってね」
 つまり、X1の悩みといえば、経営の悩みだ。決して、この半同棲状態の通い妻についてではない。
 前回の丙による詐欺の負債は結局無傷とはいかない。当初の経営計画は破綻済み。
 新しい計画を立てるまで、彼にできることは、空室率を極力抑え、負債を増やさないことと、
「X1さん! お客様へのお部屋紹介頑張りますね!」
 この謎の敏腕びんわん営業かよづまおんなとの生活で、出来る限り平然を保つよう努力することだった。
「って、無理だ!! Y1さんは確かに優秀だ。でも、あなたが一番ウチの部屋をお得に借りてるんだ!! クソッやり手OLめ!」
 彼の悩みは尽きない。Y1のサポートがなければ、X1の生活はとうに崩壊していてもおかしくない。
 だから、いつものことながらX1はY1に頭が上がらないのだ。
 彼に、安住の地はない。「ガチャ。X1さん、ここにいたんですね」
「はい。俺はここですY1さん」
「今日は、私の部屋で暮らす日でしょ? さ、早く来てください。晩御飯です」
「俺は、周辺地域の家賃相場を洗ってるんです。……ん? 晩御飯? 行きます」
「はい、行きましょう。あと相場なんてウチで調べた方が早いんですから程々にね」
「……最近、Y1さん口調崩れてませんか」「崩れてませんよ。崩れてると感じているなら、それはX1さんが心理的に私に親しみを感じているからそういう錯覚が起きているんじゃないですか?」
「そうなのかな」「そう! だから、晩御飯にしましょ?」「はい」
 彼の居住スペースは4階の大家部屋……だけの筈だった。
 プラスで、Y1、彼女の神聖インテリア部屋となった308号室も、実質居住スペース扱いだ。
 彼にとって、全く必要のない豪華な内装と空間が彼を出迎える。
 もう、X1はこの内装に癒されない。今では疲れの象徴ですらある。
 ただ、食卓に並ぶ“普通の食事”の価値を彼は認める。実際、大助かりだ。
 X1をして、これをY1に返さなくてはならない恩シリーズの二割を占めさせるほどだ。
 これは実害のある事件を解決してもらった件を含めた割合だ。
 このことからも、食事の提供が彼にとってどれだけ重要なのかが推し量れる、というものだった。
「いただきます」「どうぞ!」
 こうして暮らしていると、まるで結婚生活みたいだな、とX1は混乱する。
 でも、彼は結婚を考えていない。Y1も、そうは言ってこない。
 彼女の考えは分からないが、X1がそうしないのは自明の理だった。
 結婚とは対等なもの。彼女と決して対等でないX1に、Y1と結ばれる道理など、何処にもないのだ。
 だから、このまま。ずっとこのまま。X1はこの生活が、少し好きになりつつあった。
「ああ、好きだな、これ」
「おっ! お目が高いですね。今あなたが食べているのは、私の得意料理です。美味しい、美味しいと食べてくれました」
「そうですか。美味しいですよ」「私は、幸せです」「……」
 X1はこの現象をたまに感じる。Y1の言うことが、普段以上に虚飾に見える。
 普段も嘘っぽいのだが、この時は殊更ことさら酷い。
 だから、X1は彼女とは対等になれない。それは、もし対等になったとしたら……
 X1はX1のままでは居られないだろうから。

「こんにちは!」「こんにちはー」
 ある日、X1が甲物件の共用廊下で空き部屋の鍵を回していると、高校生くらいの少女とすれ違い、挨拶を受けた。
 まあ、間違いなく住人だろうと、住人の顔を碌に覚えていないX1は、閉まりかけの扉を見つつ、思う。
 208号室。3LDKの家族世帯向けの部屋だ。そこの娘だと彼は推察する。
「V4ー!! 携帯忘れてルワよー」
 同じ扉から出てくる人物が外に向かって叫ぶ。恰幅のいい女性だ。今の少女の母親に見えた。
「アら、大家さん。今娘が通り過ぎませんでしタ?」
 X1は女性に話しかけられ、いたく驚いた。自分が大家だと知られていると思わなかったからだ。
「ええ、見ました。あ! 今そこを走っていますよ」「あラ、ありがト。V4!! 携帯!!」
 元気のいいご婦人だ、とX1はしみじみする。元気といえばY1。彼女もいずれ、こうなるのだろうか?
 X1の頭に違和感のある想像が巻き起こる。違和感でしかなかったので、このイメージを彼は捨てた。
「忘れてた! ありがとお母さん。ん? さっきの……お隣さんでしたっけ」
 少女は、自分が戻ってくる間の時間を挟んだうえで、未だにここにいるX1を訝しげに見つめる。
「違ウの。大家さんヨ。大家サん。でしょう? 大家さン」
 少女の母が大家さんを連呼しながら、紹介する。「ええ、そうですよ」X1もそう返す。
「大家さんだったんですか。じゃあ、ちゃんと挨拶します。V4と申します。高校生です!」
「ご丁寧にどうも……! 私はここの大家をしています、X1と申します!」
 元気のいい声をもらったX1は、普段と違う感覚に少しオーバーに自己紹介をしてしまう。年齢まで言う気は彼にはなかった。
「これで、家賃引き上げとかしないでくれますよね! ね!」
 X1はもうほとんど腰を抜かしていて、「はいはい、致しませんよ!」と謎の確約をしてしまい、謎の失言感に苛まれた。
「あララ! うちの子ハ最高ね! あ、そろそろ時間ヨ」「そうだ! 行ってきまーす。大家さんもどうも!」「行っテらっシゃーい。大家さんモありがとウね」
 騒がしい母娘がそれぞれの行き先に去っていく。
 残されたのは、そういえば何故この階に来ていたのかをさっぱり忘れ、腰を抜かしたままのX1だけだった。

「俺は……大儲けするんだ。そして、ああ、いくらでも、行ける!」
 薄暗い部屋に男が一人。キーボードを叩く。カーテンは半端に閉められ、陽気の侵入を防いでいる。
 彼は起業家だ。少なくとも自分ではそう思っている。完全自宅作業で成立する事業を考え出したのだ。
 今は、その事業が失敗してしまったので、その負債をなんとかしてデイトレードで取り返す所存。
 不運の重なりで消滅してしまった、彼のビジネス。再起さえすれば、彼は完璧にそれが軌道に乗ると確信していた。
 そこに、喧しい女性の声が飛び込んでくる。
「あンた! また損だして。ワたしのアドばいす! ちゃんト聞かなイから、こうなるノよ!!」
 男に怒鳴るのはV4を愛娘にもつV2だ。彼女は夫であるV1に対しては、大抵この態度だった。
「怒鳴るなよー。集中が切れるだろー」V1は年齢不相応な拗れ方をした甘え声を出す。
「何度イっても分からないヒとには、抜キですからね!」V2は雑にV1を叱りつける。
「意地悪だなー。ねえ、御飯は? おなかすいたな」
 V2はギロっとV1を見ると、彼に近づいて耳を引っ張り囁く。
 直ぐに今の彼女の言動を、昔のV2の職業と結びつけてしまうV1をたしなめるには、この方法が一番なのだ。
「いーマ、抜きっテ、言ったデしょ? おバかさン?」そしてそのまま耳を一回転させる。
「いたたあたたたあたたたたたっただだだだ! やめてー! 強引に、いだぢああああ!!」
 彼らてい家夫婦は子供たちがいないとこんな感じだ。当然これは仲が悪い夫婦の図だ。
 今にも壊れてしまいそうな、彼らはそんな家族だった。

「僕、もう学校なんて……行きたくないよ……」
 少年は蹲って膝を抱えて怯えている。そこは甲物件の一室。
 ワンルームの空き部屋の鍵が開いていることに気が付いた彼は、そこを避難場所として活用していた。
「でも、こんな所にいるのを、大家さんに、見つかったら……う、怒られる……」
 無論大家は怒るだろう。しかし、彼が今想像しているのは仕事がうまくいかずに余裕のない父親の姿だった。
 母親の前では迫力のない父親だが、彼女がいない場所では息子の耳を引っ張るのが彼の得意技だ。
 もちろん母親に通報すれば、父親は妻にとっちめられるだろう。
 だが、息子を自分と同じ目に合わせるのが父親であるV1の愉しみでもあるようだった。
 それが、彼の愛であるようだった。
 その時、少年の耳に近づいてくる人間の足音が聞こえる。その音は、少年のいるワンルームの前で止まった。
「ヤバイ……誰か来る!」
 少年は、殺風景な空き部屋にある数少ない収納の中から隠れ場所を見つけなくてはならない。
「どこに……ここは?!」
 少年が見つけたのはキッチンの下。排水管のある比較的容量のある収納スペースだ。
 急いでその場所に隠れ扉を閉める。その大家と思われる人影をやり過ごせると信じながら。
「X1さん。空き部屋の空気を入れ替えるのはいいですけど、鍵、かけ忘れてますよ。はしたないですね」
 聞こえてくるのは女性の声だ。
 大家は女の人だったのか? それとも、この部屋に関係する仕事をしている別の大人か?
 少年の頭はぐるぐると思考を巡らせる。
「あれ、靴が脱いでありますね。これは……」「?!」少年の巡る思考に突然鈍重な音が響く。
 彼は自分が致命的なミスを二つしていたことに気づいた。
 一つは言わずもがな。もう一つは、鍵を内側から掛けなかったこと。
 音を殺し、気配を殺し、少年はこの部屋に入ってきた。
 だが、そこで鍵を掛けるという音のしそうな行為を、少年は無意識に避けていたのだ。
 見つかる。彼はどうにかしてこの窮地を脱出できないかを考えていた。
 当然、忍び込んだのが自分であるということを隠し通した上でだ。
 だが、そんなことは不可能だった。
「V5君。出てきてください? 大丈夫。静かに出てきてくれれば、捕まえたりしませんよ」
 再度、少年の頭に大激震が走る。何故、この女の人は彼の名前を知っているのか。
 もう、親に通報済みなのだろうか? 少年の心は出血を伴い壊れかける。
 しかし。答えは簡単だ。部屋の中に置きっぱなしのランドセル。もっといえば、靴だってシンプルながらに名前入りだ。
 だから、まだ手遅れではない? いや、彼にとってはもう、詰みだ。
「みーつけた」
 壊れかけていた少年の心は、この一撃で失血多量で死に至る。
 もう、逃げ出すことなど、出来ない。

「ふーん。そういうことですか」
 少年――V5の話を聞き終わったY1と名乗る女性は納得したようにそう返した。
「丁家は想像以上に疲弊してますね。貧乏が理由でいじめられる程とは」
「はい。クラスメイトと遊ぶのにはお金がいります。でも、」
「でも?」女性はV5を焦らせないように、ゆっくりと促す。
「でも、僕は一緒に行けない。同じものを買えないから」
 Y1はV5からの少ない情報から理解する。彼にはもう、家族しかいないのだと。
「おねえちゃんは最近一人で遊びに行っちゃうし」
「お姉さんが……仲が、良かったの?」
「うん。バイトでお金があるときは、お小遣いくれたりしたよ」
 Y1はV5の話し方が崩れてきたのに気付いた。家族の話だ。当然だろうとY1は納得する。
「いいお姉さんだったんだね」Y1はその言葉を噛みしめる。
「うん。大好きなおねえちゃん……です」
「ありがとう。お話聞かせてくれて。私は、あなたの味方になります」
「えっ……」V5は驚いた。この後は家にいる激怒した父親に引き渡されるのがオチだと思っていた。
「でも、このお部屋は使わせてあげられません。新しい住人の方が、明日にも来ます」
「そう、ですか。ごめんなさい。僕、いちゃいけないところに、いました」
 だから、ごめんなさい。と少年は繰り返す。
「僕、お父さんに、学校サボったこと、ここに入ったこと。いいます」
 Y1の体が一瞬震える。
「……いいの? 酷い罰を受けますよ?」「そんなの、当たり前ですから」
「V5君はいい子ですね。私も一緒に行きましょう。あなたの勇気を見届けたいです」
「……! ありがとうございます。僕、行きます」
 V5とY1の二人はその後、家で飲んでいたV1と顔を合わせた。
 激昂するかと見えたV1は、Y1が視界に入ると急にシュンとして彼女に媚び始めた。
 しかし、Y1にはそんなV1の言動より、V1の顔を極力見ないよう目を背けるV5の表情が印象的だった。

「へーそんなことが」
 X1はその日の夜にY1から、朝出会った少年の話を聞いた。
「そうなんです。2階で1Kの205号室に。幸か不幸か、X1さんの導きですね」
「え? 俺ですか?」「鍵、かけ忘れてましたよね。引き渡し直前なのに」
「引き渡し直前だから、行ったんだよ……」「でも、おかげでよい子に出会えました」
「そっか、丁さんが借りるときは、子供同伴じゃなかったのか」「顔は知ってましたけどね」「俺はその子の顔知らないな。まあ、いいけど」
 そんな話を夕食をつつきながらする。Y1は気にしていない様子だが、X1は気になってしまう。
「そうか丁さん家の家計は、そんなに厳しいか。もっと安いところに行っちゃうかもな」
 彼は空き室が出来てしまうのを、恐れるほかない。
「大丈夫ですよ。また連れてきますから」Y1は有能さに裏打ちされた能天気さで返答する。
 X1はそれに安心してしまう自分は、なんておめでたいのだろうと、そう自嘲するのだった。

「あっ……大家さん。こんにちは!」
 ある日の夕方、元丙被害者の会のメンバーとの飲み会に行きがけのX1とY1に挨拶する声があった。
「V4さん、今帰りですか。でも、あれ?」「違くてですね? 今から出るんです」
「そうでしたか。すみません。服装が気になって」「そうです、学校帰りじゃないですよ」
 X1は楽しげにV4と話す。V4もX1に対しこなれた話し方をする。「それで、」とV4はX1の横を見る。
「大家さん。こちらの……か、方は?」V4は彼女に似合わないおずおずとした様子でX1に訊く。
「彼女は、Y1さんです。ウチの担当営業をしていて、」「あ、あ。そうでした。一度、お会いしましたね」
 X1がY1の様子を見ると、彼女は気品のよさそうな微笑みを浮かべている。
 X1が何度も見たことのある彼女の営業スマイルとは、別物の笑みだ。
 おそらく、女性として振舞うときのバージョンだろうと、X1は理解する。
「以前より、お綺麗になりましたね。V4様」「い、いえ……ありがとうございます」
 それは営業として問題ない言葉選びだろうが、同時に気品を出されると、X1には今のY1が貴族に仕えるメイド長か何かに見えて、仕方がなかった。
「では、私は……行きますので、また!!」
 最後は逃げるようにV4は通路を駆け出していく。X1はY1に向き直り注意した。
「V4さん怖がってたよ? その抑圧的なオーラ抑えて、抑えて」
「す、すみません!」するとY1が放っていた雰囲気がスッと収まる。
「お客様の前だと、つい、仕事の気分が過剰分泌されて……」
「それ、普段もその気品で仕事してるの? 部屋の押し売りならぬ押し貸しになってない?」
「? ご心配なく。どんどんお客様を連れてきますから!」
 会話が成り立たない。X1は彼女の才能については、一度、口を閉ざすことに決めたのだった。
 その後、甲物件を出た直後に、V4が少し離れた場所で男性と会話しているのがX1には見えた。
 Y1にそのことを教えると、「どうせ、そういうバイトですよ」とそっけない返事だ。
 危ないことをしてないといいが、とX1はV4が気になりつつも、会メンバーとの集合場所に急ぐのだった。

 元丙被害者の会飲み会で、D1らに二人がやたらとavec(カップル)扱いを受けるのは言うまでもない。
 一応、多少はそれを嬉しく思うX1だった。


 それから一か月後、208号室の丁家の居間には男性の怒鳴り声が響いていた。
「これで、この方法でうまくいく筈なのに!!!」
 V1は家族がいるにも関わらす、パソコンの画面に向かって叫んでいた。
「うルさイ!! 夕飯時ヨ!」V2も同様にけたたましい。
 V4とV5も一緒だ。彼らも流石に父親が怒っている理由には見当が付いている。
「……私、ここにいたくないんだけど」V4が白けた様子で小声の愚痴を言う。
「ゴめんね。V4、自分の部屋に、ご飯、持って行ッてイいワよ。V5モ、行きナさイ」
 V2も小声で言う。V1が聞きつけたら、自分達の争いに子供達が少なからず巻き込まれるだろうことは、明白だった。
 夫のことは、いつも通り叱ればいい。でも、子供達にその光景を見せるのは、彼女にとって本意ではなかった。
 V4はそそくさと自室に引っ込む。V5はV4に一度は付いていこうとする。
 だが、姉の足音に苛立ちが混じるのを聞いた途端、彼は姉の後を追うのをやめた。
 そこからは、いつもの夫婦喧嘩だ。
 周囲の住民にもこの物音の原因が自分達だと知られているが、本人たちが自発的に抑制できるものでもない。
 これは、戦いなのだ。V2に出来ることは、せめて子供を遠ざけておくことくらい。
 そして、V1に出来ることは、家族のためにせめてこのビジネスを成功させることくらいなのだ。
 価値観がぶつかり、火を上げる。上にも下にも隣にも、怒声と物音が染み渡る。
 V1は数週間前に匿名でメールされてきた、必勝投資法を毎日実践してきた。
 最初、その投資法は面白い程うまくいき、かなりの額を稼いだ。
 しかし、途中から利益が下がり始め、持ち直そうとすればするほどドツボにはまる。
 結果、稼いだ三倍の額を失うまでに至ったのだ。最近は借金取りまで来るようになった。
 当然、妻もキレる。
 何故なら、妻であるV2も投資には一家言ある性質なのだ。
 そして、それ故に。V2にはV1の勝率がこれから復旧する望みのないことも、直ぐに判ってしまう。
 さらに、専ら借金取りの応対をすることになるのは彼女だ。もう、限界だった。
 だから、V2は別居と離婚を切り出した。すると、V1は彼女に縋り付いて泣き喚き始めるのだ。
「嫌だぁーっ!! 愛してるんだ!! 俺を見てくれ!! 見捨てないでくれっ!!」
 V2の服は涙で濡れていく。彼女は呆れながらもこう言うしかなかった。
「……仕方なイわねぇ。もう少しだけ待ってあげルけど、もウ家計が持たないワ」
「君の株は! 昔は儲けてたじゃないか!!」
「私のは、少シ前に全部売っタわ。全滅シて。だかラ、あソこを買うのハ止めてっテ言ったノに」
「なんだよ……あれは、最近の実体験に基づいてのアドバイスだったのかよ……ごめんよ、無視して」
 この出来た妻をV1は手放すわけにはいかない。V1はこの状況をひっくり返す作戦を立てなくてはいけない。
 今度は、この愛する妻と、一緒に。


 4階のX1の自室の窓に、雨が叩き付ける。夜零時。X1は中々眠れずにいた。
 彼の寝室には、彼一人。彼の眠りを邪魔する同居人はいない。
 勿論、彼女がX1の眠りを妨げるような振る舞いをしてきても、それは冗談なのだとX1には分かっていた。
 だが、今夜に至ってはそんな事情は眠りを妨げる要素に満たない。
「今日は、一段と、激しいな……この階まで聞こえるぞ」X1はベッドの上で、天井に独り言を言う。
 偶に、下の丁家夫婦が夜遅くまで喧嘩することを、X1は知っていた。
 彼が3階で泊るとき、怒鳴り声が上まで届くからだ。
 だが、今日は怒鳴り声ではなく、物音メインだな。とX1は喧嘩品評を行う。
 X1の査定では、言葉を交わすことを諦めたいさかいは、当事者同士の潰し合いでしかなく。
 もう、修復不可能であると、相場が決まっている。と、いうものだった。
「少年漫画だったら、友情の芽生えなんだけどな……」
 だが、これは夫婦喧嘩だ。有り得ない。とX1は都合のいい夢幻を布団にしまって寝付くことにする。
 しばらくすると、物音も聞こえなくなり、彼はいつの間にか眠れていたのだった。

「って訳で、ぎりぎり眠れました……」「私は、もうダメですぅ~」
 朝、X1は目撃してしまう。
 昨晩の物音を直上でモロに食らい、寝不足で朝っぱらから疲れ切った様子のY1を。
 Y1にも女性らしく繊細な所があるんだなと、X1は失礼なことを考えていた。
「X1さんが、眠れたなら……ふぁ、あ……よかったですぅ……」
 X1が、今日仕事じゃなくてよかったですねと言うと、「ええ、ホントに」
 と呟いてY1は寝てしまう。どうやら、彼女は普段から下の夫婦喧嘩を盗み聞きする趣味があるようだった。
 後に訊くと、彼らの言い合いには彼ら自身の投資戦略の内情が多く含まれていたらしい。
「なので、あの夫婦の見込みの逆に投資すると、いい感じに稼げたんですよ」
 なんて、酷い返答がY1から返ってくるものだから、X1は呆れてしまうのだった。
「いやあ、私達のために一生喧嘩していて欲しかったですね」
 Y1は寂しげに丁家を懐かしむ。そう、これは後の話。まだ、寝不足気味のX1は知らない話。
 そして、この後彼も知る話。そう、丁家消滅事件の始まりだった。
 否、そんなことはない。これはただの夜逃げである。

 寝不足の日の昼、しっかり208号室への騒音苦情の電話がX1の元に届き、X1はぐったりしたY1に対応をお願いした。
 だが、Y1は「はあ……まあ、はい」と虚ろな表情。
 彼女もあの家族の騒音の被害者だ。気乗りしないんだろうな、とX1は案じた。


 最近、丁家を辺りで見かけないな? とX1が思い始めたのは2週間後のことだ。
 喧嘩の音も最近はめっきり無くなって苦情の電話の心配もなく、安眠コースなのは彼にとって良いことだったが。
 だが、なんだかんだで賑やかだった丁家の存在感が甲物件から失われたのは、X1にとっての根拠のない不安の材料としては十分だった。
 とは言え、X1は特別何かをするほど、丁家と親密でもない。
 きっとY1か、お隣さんから直接騒音の苦情でも貰って、大人しくしてるのだろうと考えていた。
 しかし、翌月。流石のX1も違和感が強くなり、休日に丁家をお菓子のおすそわけに訪問。
 だが不在の様で、X1は丁家の電気メーターやガスメーターの数値をメモすることにした。
 これで、確信が持てる。彼には事の見当が付き始めていた。

 そして、想定通り丁家からの家賃支払いがストップした。
 保証会社と連絡を取り合うが、彼らからも丁家の現在情報が得られない。
 連帯保証人には連絡が付いたが、夜逃げと確定していないせいか、あまり協力的ではなく。
 迫力に欠けるX1の話はのらりくらりとかわされる。
 彼は文句の一つでも、この保証人に言ってやりたかったが。
 幸か不幸か、丁家が静かになって周辺住民的にはむしろ苦情の出し所が無くなったくらいなので、
 連帯保証人の遅々とした対応にどう文句をつけたものか、X1は手段を図りかねていた。


 そしてついに事は起きた。

 休日真っ昼間の甲物件に、何か硬質なものを蹴る音と「開けろ!」などという怒声が聞こえてきた。
 たまたまX1の部屋にいたY1が急いで現場に向かって走ると、そこには丁家の玄関扉を蹴る黒ずくめの不審人物がいた。
 見てきた彼女に気づいた様子の黒ずくめは、舌打ちをしてかったるそうにその場を去る。
 Y1はこのことをX1に知らせようと部屋に戻ろうとしたが、その瞬間ガラスの割れる大きな音が彼女の意識を削いだ。
 先程の黒ずくめだろう。Y1は直感する。
 彼女が甲物件の反対側に回り込み、割れた丁家の窓ガラスを目視で確認する頃には黒ずくめの姿は無かった。
 Y1はすぐさま警察とX1に連絡をした。
 だが、黒ずくめの人物の目撃者はY1と同程度の情報しか持っておらず、不審人物の行方は不明だった。

 丁家の室内に何かが投げ込まれた可能性があるとして、X1に警察から協力の要請があり、彼は丁家の扉を合鍵で開く。
 そこには。「ああ……これはやばい」
 X1は自分の想像が当たっていたことを確信した。この部屋は2ヶ月ほど無人だったのだ。
 物が散らかり、ごみは放置されている。ついでに割れたガラス窓からは風が吹き込んできていた。
 おかげで臭いはすぐ気にならなくなったが、色々なものが室内に放置されている一方で。
 しっかりと金品などの貴重品などは持ち去られている。「まあ、そうだよな」X1は独り言ちた。
「投げ込まれたのは、これですね」
 捜査官は、床に落ちていた道端の石のようなものを指さしている。それは汚れたこの室内にすらそぐわない物体だ。
 Y1さんが通報した原因はこれか。X1は丁家の割れた窓ガラスと石の位置関係からも、これが投擲物だと断定する。
 もう、ここに丁家が帰ってくることはないだろう。
 X1は大きなため息をつきながら、一旦家に戻るのだった。

 丁家の部屋と郵便受けの捜索結果から言えば、彼らは2ヶ月間不在で、家賃の支払い要求の郵便も見ていない。
 不在になる以前から光熱費の滞納が行われており、さらに多額の借金の存在を示す書類まで発見された。
「申し訳ありません。私が、丁家にここを紹介したばかりに……」
 Y1が落ち込んだX1と同じくらい低い声音で言う。
「いいえ。Y1さんは俺の要望通りの仕事をしただけです。あの時も、今も。お客様の選り好みは出来ないですから」
「ごめんなさい」Y1は重ねて謝るが、X1はそれを聞くだけでさらに辛くなる。
「今は、対処を、しましょう」
 X1に言えることは、これくらいだった。
「はい。全力でお手伝いします」
 それでも、X1はY1のこの台詞で元気づけられるのだった。

「家賃やら、ごみ処理代やら払えって言われてもね? そっちでちゃんと丁さん探してくれてからでねえと、こっちも納得できねえんだわ」
 X1は明らかになった丁家の夜逃げを、彼らの連帯保証人に教えるが彼は非協力的な態度を変えない。
「家具もなくなったいうけど、ちょっとその不審者に怯えてどっかでほとぼりを冷ましているだけじゃねえのか? 兎に角、俺も奴らの事を教えるから、あの気に食わん夫婦、探して思いっきりむしり取っちゃくれませんかね」
 どうやら連帯保証人は丁家の夫婦をよく思っていなかったようだ。
「娘たちは良う出来た子なんだがなあ」とも言っていた辺り、保証人になったのはそれが原因か、とX1は妄想する。

 しかし、連帯保証人の持っていた丁家の情報を使ったり、被害を受けたということで警察も多少は丁家を探してくれたが、彼らの行方は掴めずじまい。
 夜逃げは発覚が遅れるということもあり、X1らによる捜索は難航した。

 しとしとと小雨が降る日。X1は夜の時間を使い、再び伽藍洞がらんどうの丁家にやってきていた。
 大きな家具や、乾いたごみなどは放置も致し方ないだろうが、食品や、水気のあるものは連帯保証人の納得をまってからというわけにはいかない。
 Y1も手伝うとのことで、X1は彼女とカオスと化した丁家のごみを浚うのだった。
 Y1は割れた窓のガラス片を集めたり、何度か外のごみ置き場に、ごみを運んでくれたりした。
 物はあまり減らないが、整頓して床が歩きやすくはなった。そして、Y1が最後の生ごみを持って行ってくれる。
 彼女が、開いたドアから両手でごみ袋を持って出ていき、階段を下りていくのが分かる。
 息をつき、一休みするX1。しばらくすると階段を上がってくる音が聞こえてくる。
「今日はこれで戻りますか」彼は足音の方へ歩を進める。こんな時間まで手伝ってくれたY1と帰るつもりで。
 同時にX1の電話が鳴る。発信者は。
「なんだ、Y1さんか」それなら、この足音はY1ではないだろう。X1は電話に出る。
「も、」「X1さん、危険です! あの不審者が来ました!! そっちへ向かっています!」
「へ?」X1は頭が真っ白になる。気づくと、丁家玄関扉の前に黒ずくめの男が立っている。
 X1は自分が電話を持っていることも忘れ、遅れて電話が床に落下する固い音が部屋をこだました。
「お前……」男の目深にかぶったキャップの陰から、ガラついた声がした。
「な、何で……すか」X1は後ずさりも出来ない。右手は電話をしていた時のままの位置。
 電話は床。左手の感覚も無い。X1には声すら出せている自信も無かった。
「お前、知ってるぞ? あの子と……V4と楽しそうに話してた奴だぁ!!!!」
 急に男の声の抑揚が荒れる。その勢いで金縛りから解けたX1は急いで電話を拾い上げようとするが出来ない。
 手の感覚が、まだ戻らない。するすると、手の中を電話機の妙に丸いフォルムがすり抜けていく。
 その間にも男はずかずかと部屋の中へ入ってくる。
「お、俺、私はこ、ここの大家で……それで……!」
「大家さんだぁ? なら、ここの丁の借金のさ、代わりに払う義務ってのがぁ、あるよな? 逃がしたんだもんな、ん?」
「無いですよ……そんな義務……」X1は泣きそうだ。というかもう泣いていた。
「メソメソして誤魔化しやがって。最近の女はこういう男が好みなのか? 妬けちまうね!」
「ごふっ……」
 X1の腹に男の蹴りが入る。X1は腹部を抱えて倒れこみ嗚咽を漏らす。
「こんな奴に、こんな奴の何が良いんだ? こいつもどうせ詐欺師だ。金持ってる奴らはみんなそうさ」
「Y1さん、どうか、戻って来ないで……」
「だからこんなことになるんだ。丙の奴らもだ! 結局裏切り、裏切られる。金を受け取るのは、全部! 最初から裏切る必要のない、余裕のあるやつらだけだ!」
 男は上着の裏から銀色に光る凶器を右手に取る。薄い月光を反射する刃と漆黒の持ち手を持つ。殺意のカタチ。
「やめて……」X1は大きな声を出せない。全ての緊張の圧が喉元にかかっているような感覚だ。
 男がナイフの刃先をX1に突き付ける。彼の手も震えている。
「お前しかない。お前が流したんだ……あの子を!!! 死ね!」「うわああああああ!!!!」
 誰の絶叫だろう。俺か? この男か? それとも、今にもこの男をバットで殴り殺しそうになっている、この人か?
 X1の頭の中で全てがスローモになり、そして瞬時の明滅。打撃音。次の視界では、男は右腕を押さえて、苦しそうに壁にもたれていた。
「X1さん。大丈夫ですか?!」「Y1さん、来るなって……言ったのに。来ちゃったんですね。いけない、人だな……ぐふっ」
 口から濁った空気と、冷たい唾液が零れる。Y1はX1を介抱しながら、男の様子を伺う。
「ハハハッ!! ハハッ! ハ? お前、女にモテるみたいだな……」男はナイフを左手で拾い、再び構え、今度はY1に話しかける。
「あんたもこの男がいいのか? 女ァ……救えねえ、救えねえ奴バっかりだぁ。やめとけよ、やめとけって……売られちまうぞォ?」
 それを無視し、Y1は冷静な話し合いのポーズをとろうとする。
「あなたは丁家の借金取りでしょう? 丁家の亭主V1から聞きました。S1、それがあなたの呼び名ですね?」
 S1と呼ばれた男は、何の感情か分からない苦しみにもがき出した。
「俺の、俺のモノだった! 俺のモノだったのに! ああ、そうだ。俺がS1。だがな、俺はもう借金取りじゃ、ねえええ!!!」
 S1がY1に飛び掛かる。右手を庇っているが左手のナイフの動きもかなり早い。彼女は、避け際に転倒する。
 Y1はナイフを避けるのに集中してしまい、S1の足払いに気付けなかった。
「ぎゃぁ!」「Y1さん!!」「ぶっ飛べ!!」S1の渾身の蹴りがY1の胸部に命中。彼女はごろごろと転がり、呻く。
 X1の呼吸が早くなる。Y1は胸を押さえて動かない。S1はナイフを閃かせて彼女の方へ。
「何?!」S1の声。X1は、無意識と意識で同時に決定した行動を取った。
「ぐわああっ! クソッ、お前……痛ってええ……クソクソクソッ!!」
「はあ、はあ……、やった……」
 X1が狙ったのは、S1のナイフを持つ手。体当たりで、S1の左手からナイフを取り落とさせることに成功し、それをすぐさま拾うX1。
 もう、彼の手は痺れない。大切な人を守るためだから。
「Y1さんから離れろS1! Y1さんがもう通報している、これで終わりだ!!」
 その言葉に、体当たりを食らった時の痛みを堪える様にしていたS1は、それでも口元に歪んだ笑みを浮かべていた。
「そうかもな? でも、お前は直接人を殺れるタイプじゃなさそうだ? 助けが来るまで俺とそれを使ってやり合えるかな」
「み、見くびるなよ?」X1は必死にナイフを正中に構え、S1を牽制する。S1は蹴りの構え。
 今度は、X1の首。急所狙いだ。
 X1は瞬間、自分の首がズレた。と思った。これは殺気? それとも予測。彼は自分の死を予感する。
 来る。X1が自分の首を腕で庇いかけた時、予感していた攻撃がこない。代わりにS1の「くそッ、離せ!」という怒鳴りが聞こえる。
 Y1がS1の足にしがみ付き、抑えている。X1は自然と、自分が直後に取るべき行動がわかる。今しか、なかった。
「S1!」「俺は、許さない!!」「駄目ッ!!!」X1は躊躇わずS1に突進する。三人の声が混在して、どれが誰の声か分からない。
 ただX1に分かったのは、自分がS1に突き立てようとしたナイフがY1の手で止められていたこと。
 彼女の手は刃を直接握り、血まみれだ。X1はふらふらとへたり込み、ナイフを手放す。
「なんで? Y1さん……」
 Y1に刺突を防がれ困惑するX1とは裏腹に、S1はY1の手から血と共に零れ落ちたナイフを嬉々として拾う。
 もう、彼らの間に言葉は必要ない。ただあるのは、命の取り合い。ただそれだけ。
 S1は止めとばかりにX1の心臓を抉ろうと、ナイフによる突きを繰り出す。
 S1の手に伝わるのは、敵の肉を別ける感触。急激な刺激に緊張し血を滴らせる筋肉が、彼のナイフを脈動と共に飲み込んでいく。
 彼のナイフは女の腹に、刺さっている。「は?」女の腹に刺さっている。男の心臓ではない。
「女、邪魔を!!?」「これで、気が、済みましたか?」女が笑う。さらに、女の手が。Y1と呼ばれていた女の手がS1の上着の中に滑り込み、引き抜かれる。
「お前、何をした……」それが何か分からない内に、彼の体は有り得ない刺激によって動かなくなってしまった。
 X1は一部始終を見ていた。自分の盾になったY1に覆いかぶさったS1の上着から、彼女がスタンガンを引き抜きすぐさま彼を感電させたのを。
 S1はショックでのたうち回る。Y1はそのまま力なくだらりとして倒れ、呼吸だけが荒い。今にも、終わってしまいそうなほど、激しい呼吸。
 彼女の口から小さく声がしてX1はそれを聞き逃すまいとするが、呼吸が次第に弱くなっていき、
 X1は自分が何をしているのかも分からないまま。色が白くなっていく彼女の肩を揺さぶり続けていた。
 自分がずっとY1の名前を叫んでいたことにX1が気づいたのは、救急隊員と警察がきて、彼女から引き剥がされた時だった。
 意識のはっきりしてきたX1が、呆然と辺りを見回すと、そこで痺れていた筈のS1がいない。彼は、また逃げた様だった。

 事情聴取の間、X1の脳裏には自分自身の声が聞こえていた。『なんで? Y1さん』ずっと彼女に問いかける。
 ナイフを奪われるのに。無茶して刺されちゃうのに。なんで、S1も守ったの? 彼はずっと問いかける。
 そしたら優しいY1の声が答えてくれる。何度も、何度も。『だって、X1さんに、人を殺して欲しくなかった……』
 彼女はあの時、息も絶え絶えにそう言ってくれた――
 それでも、疑問は晴れない。だからX1はY1に問いかける。
 『なんで? なんで? なんでなの、Y1さん。だって、死んだら』
 もう、会えないのに。


 数日後、X1の元にS1確保の報が入った。決め手はあの夜の会話内容の録音。誰の仕業かは、考えるまでもなかった。
 X1は仕事を休み、家でその報告を受ける。コーヒーカップを見ると、中身は空。
 この数時間で、彼は空のコーヒーカップを計5回確認していた。
 X1が窓を見ると、空が朱く焼けていた。時計を見ると、短針は5時を指している。
 夕方か。X1はそう思いながら、でも、夕食の準備をする気分になれなかった。
 頭には声が響く。もう、自分の声ではない。彼女のものだけだった。
 そうして、夕日を見つめていると、不思議と空が明るくなっていく。それは、まるで夜明けのように。
 心境と相反する感覚にX1は混乱する。その時、彼に電話がかかってきた。その声は、
 彼の頭の中の声を、一瞬で凌駕する声だった。


「心配、させてしまいましたね……」病室に入ったX1を迎えた彼女の第一声は、これだった。
「幻滅、しました」X1は冷たい声で病床のY1を、鋭く責めた。「ごめんなさい」彼女から帰ってくるものは、また、謝罪だった。
「俺、Y1さんはもっと上手くやると思ってました」X1の声は冷たさの代わりに、熱くなっていく。熱湯を沸かすように、ぐつぐつと震える。
「私は、うまくできないことのほうが、多いですよ?」Y1の声音は対照的に穏やかだ。
「でも、今回は」X1が唇を噛む。「はい。お恥ずかしながら、計画通りです」Y1は目を閉じながら、渋々宣言する。
「刺されることもですか!!」X1は思わず怒鳴ってしまう。ここは病院だ。思い出した彼は口を急いで閉じる。
「……それは、いいえ。もちろん、刺されたくはなかったですよ」「当然です。違かったら帰るところでした」
 X1は、もう怒り心頭だ。彼女には酷い気持ちにさせられた。尊敬なんて残ってない。だから、彼は対等に怒ることにしたのだ。
「最初の電話の時、すぐに警察を呼びましたか?」「はい。X1さんに電話する前に呼びました」
「なんで、一人でS1に立ち向かったんですか?」「後ろからの一撃。あれで逃げると思ったんです」
「いつから、録音を?」「X1さん。電話切らなかったでしょう? 通話内容から録音しながら部屋に入りました」
「スタンガンで、止め。格好、良かったです」「ありがとうございます。彼のポケットに入っていることを見抜きました」
「でも、あんなやり方するY1さんを、もう以前のようには尊敬できません」「ごめんなさいでした」
 だから……Y1さん。X1は言いかけてやめた。自分は彼女に怒っているのだ。だから、今そんな簡単に謝らないで欲しい。
「とにかく、俺はY1さんに説教します。でも、ここ病院なのでちゃんと出来ません。だから、」
 だからの次を。次に繋げる。
「早く家に帰ってきてください。言いたいこと、全部言うんで」
「わかりました。待ってて、くださいね」
 X1は病室を、後にした。
 家に帰ると溜まっていた数日分の郵便物をテーブルに広げる。するとその横に、ずっとそこに置いてあったらしい大型封筒が目に入る。
 開いてみると、それはY1が纏めていた丁家の行き先の情報だった。とうとうX1は力が抜けてしまう。
「そうだ。あの人のやることは、いつも、いつの間にか……なんだ」
 彼はその情報が示す丁家の行き先に向かうことに決めたのだった。


 東京の風景が勢いよく流れていき、郊外へ。そして、朝の早い時間を思わせる眩しい日光が、列車の窓から差している。
 特急列車の車窓は、思ったより退屈だ。
 Y1に現地へ向かっているとの連絡を済ませてしまったX1は、やっとこさ鞄から彼女から託された大型封筒を取り出した。
 X1は電子端末をインターネットに接続し、家では目を通しただけだったY1の集積情報を一から読んでいく。
 彼は電話口のY1の言葉を思い出す。「丁家の人達に会ったら、彼らの平穏な幸せを願ってあげてくださいね」
 X1は、Y1がこの情報からそう感じるのがよく分かった。
 丁家が流れ着いて、住み込みの職場としているという田舎の長閑な温泉地。
 背景の山が映えるその旅館の写真から、彼らがどう素晴らしい再出発を果たしたのかが伝わってくる。
 恐ろしい借金取りも来ない、分不相応な商売に縛られることもない平和な日々を、丁家の長男V5が書いたとされるブログからも読み取れる。
 ブログ投稿は二か月前から始まっている。これは丁家が逃亡したと思われる日付からしても自然だった。
 そこには少年が田舎の温泉地での生活を楽しんでいる様子が写真と文章で多数投稿されていた。
 少年の顔も写っている。これがV5君だ。Y1が用意した顔写真と一致する。
 確かにこの行き先に、丁家がいる。とX1は確信した。

 最寄り駅でX1が下車すると、温泉の香りが彼まで届いた。
 地図を見る。タクシーに乗るのもいいが、X1は折角なので歩いて行くことにした。
 傾斜の多い道を、土産物屋を横目に見ながら進んでいくと写真と同じ旅館を発見した。
 ここが、丁家が働いていると思しき場所だ。様子を見ようかと木造の旅館の広い窓を覗き込もうとしたとき、X1はY1の言葉を思い出す。
 そう、X1は丁家にとって恐ろしい過去を想起させる、不吉な存在だ。
 だから、彼らの安寧を願うなら。みだりに姿を晒すのは控えるべきだった。
 丁家の誰かを見たらすぐに隠れられるよう、慎重に館内を見ていたその時、彼に声を掛ける者がいた。
「お客様ですかぁ? 入り口はこちらですよぉ~」
 のんびりとした気の抜ける、朗らかな声。しかしどっしりとした体格を感じさせる太い声に、吃驚したX1はゆっくりと振り返る。
「どうも、ここのぉ館長です~」

 館長は声の通り、恰幅のいい初老の男性だった。
 X1は自分は一応客ではないと説明するものの、館長は、流暢に自分の旅館の紹介を一通りしてくれるのだった。
 気のいい彼のトークに乗り、最近色々ありめっきり旅行らしきことが出来ていないことまで言ってしまうX1。
 この館長が丁家を引き受けているのなら、安心だとX1は思う。
「そうですかぁ。大家さんといっても兼業大家さんは、忙しそうですねぇ~」
 館長は穏やかにX1の愚痴に合わせてくれる。そしてやっぱりと彼は手を打つ。
 X1が自分が大家だなんて言いましたっけ、と疑問を呈する前に館長は言う。
「やっぱり貴方がぁ、X1さん。ですねぇ? 伺っております」
 え? とX1が固まる。まさか知っているとは思わなかった。X1はたじたじになってお辞儀する。
「いえいえ~、私が丁家の皆さんにここで働いてはどうか? と持ち掛けたのです~。大家さんは気にすることないですよぉ」
 彼のお辞儀をどう受け取ったのか、館長は手振りで、X1を宥めながら言う。
「そうだったん、ですか」X1も落ち着き、もう一度、今度はゆっくりとお礼を言った。
「まあまあ、今は子供さんは出てますがぁ、会ってぇ……いきます?」
 X1は心惹かれる。丁家は館長に自分の事を話しているようだ。だから、会ってもいいか、とも思ったが。
 こうして彼らの平穏を脅かさないと決めてきた自分がそれをしたら、それはただのエゴでしかないと、X1は気持ちを抑える。
「自分は、遠慮させてください。丁家の方々に変に追手と疑われるのも悲しいですし、直接会うのはよしますね」
「ああ、そぉうですか~」「それに、今日来たことも同じ理由で秘密にしてくださいね」
 自分は彼らに会わない。X1は館長にそう率直に伝えると、彼の心が軽くなった気がした。
「そうですねぇ。それがいいかもですねぇ? 本当に、必死で、逃げて来たんだなって顔を、してらっっしゃいましたからねぇ~」
 館長は、丁家と初めて会った日を思い出しているらしい。
「あの日は閑散期でねぇ、暇で、ここらの掃き掃除してたんでぇ、気ぃづいたんです。旅行客にしては過剰なお荷物の親子連れさんでねぇ」
 彼の語り口からしても、その時は朝だろうか? とX1は思う。夜に逃げたのなら、ここに着くのはその時間か。
「それでねぇ、やっぱぁり楽しみに来た感じでもなくてですねぇ? どおしたんですかぁ? って聞きましたらね、皆さん泣いちゃいましてぇ、驚きましたよもぉ~」
 情感一杯に館長が話す経緯は、心温まるものだった。その後館長は彼らに空き部屋を貸し、食事を出してここで働いて暮らさないか? と提案したのだという。
「子供さんも、小学生くらいだったですしぃ。ここらで心中されても困るっていう打算もありましたわぁ~。でも、そんなのが言い訳になっちゃうくらい、心から人を救いたいって気持ちになるってぇ事、あるもんですなあ~、ねぇ?」
 X1は思う。本当にこれで良かったと。夜逃げを是とする訳ではないが、彼の感情は確かにそう言っていた。
「ご夫婦はよく働いてくれていますわぁ。まだたまにしかお客さんの前には出さんのですけどぉ、良く仕事覚えてくれてますわぁ。それに、子供さん……V5君、ですか。電車通学でちょっと遠いですが、学校でね? 友達も出来てるみたいでねぇ、私はもう、感動しちゃいまして、ねぇ?」
 館長の話はそれで終わった。彼はもっと話したそうだったが、X1が来た駅側の方角を見てから、ちょっとちょっととX1に言い、近づいた彼に簡素なデザインのチケットを手渡した。
「これね? 今は繁忙期だからダメだけど、閑散期に大幅値下げする券だから、恋人さんとかと是非泊りに来てねぇ」と言い終わると、彼は旅館の入り口の方へ向かってしまう。
 ああ、お客の対応かな、とX1がそちらを見ると。
 小学生くらいの子供が、「ただいまー、館長!」と館長に駆け寄るところだった。
 その子供の顔は、X1の知るV5のものだった。
 この時になってX1は初めて実感したのかもしれない。
 Y1が、電話で言っていたことの意味を。自分が乱してはならない。この安心できる彼らの居場所を。
 X1はその場を去る。丁家の未来と幸せを祈りながらただ去ることが、彼に出来た唯一のことだったから。

 かっこよくクールに電車に乗って帰るつもりのX1だったが、じきに退院するY1に何も買わずに帰る訳にもいかないことに気がついた。
 取り敢えずの流れで最寄りの土産物屋に入ったX1だったが、そこに見覚えのあるお守りが置いてある。
「ひぇ」X1は背筋が寒くなったので、お土産は温かい温泉卵を買ってその場で数個を平らげたのだった。


「で、お土産が温泉卵って……なんか変ですね?」
 湯煎で丁度いい温度になった卵を食べるY1。X1は甲物件に帰ってきた彼女に、土産のセンスを疑われていた。
偶々たまたまそういう気分だったんですよ。それより大事なのは……丁家はあれでよかったのかな、ってことですけど」
 神妙に呟くX1に対し、Y1は卵をパクつきながら返す。
「大事……まあ。そうですけどね」
 X1は、もう三日前になるあの温泉宿でのことを思い返す。
 丁家は今、どうしているだろう? と。家族みんなで暮らせているだろうかと。
 そして彼らに対し何も要求しなかった自分は、甘すぎてはいなかったか? とも思う。
 しかし、そんな後悔に似た感情もY1の一言で霧散する。
「丁家は以前のようなバラバラ家族ではなくなりました。彼らは旅立って良かった。それだけです」
 四つあった温泉卵の最後の一個が、彼女の胃に収まる。X1は彼らの運命を噛み締めた。
 それで、X1はY1に改まって切り出す。退院直後だが彼女は元気だ。
 彼女も彼の言葉を待っている。もう、X1は心に決めていた。

「Y1さん。もう、こんなことしないでください」
 部屋に沈黙が流れる。二人は見つめ合っていたが、先に目線を逸らしたのはY1だった。
「それは、約束できません」
 X1はハラワタが煮えくり返る思いだ。自分は、こんなにも情けないのか。そんなにも、頼りないのか。
 自分は、こんなにも弱くて、脆い。だから、彼女にこんなことを言わせてしまうのか。
「Y1さん、俺は貴女を本当は責められない。だから、これは自分勝手なお願いです。でも、貴女だって自分勝手だった」
 沈黙、二人の呼吸音すら今は誰の耳にも入らない。そして、Y1が意を決す。
「ええ。その通りです。ですが、私は間違いばかりを犯してきた中で、あの決断だけは正しいと信じられます。貴方を守れました。X1さん」
「今の俺には、貴女に返せるモノが二つしかない。しかも、二つに一つ。選ぶしかなかった。――選んできました。Y1」
 自分勝手な自分たちが、せめて足を滑らせないように。これ以上、落ちていかないように。
「お別れなら、いつでも出来ます。ですが、これは今しか出来ないから」
 X1は席を立ちY1の前に立ち塞がる。それは、これまでの彼女を殺す、そういう儀式だから。
「結婚を前提に付き合ってください。もう、どこにも行こうとしないで」
 そして、X1は跪く。ここからは彼女がX1を殺す番。首を捧げるように頭を垂れた。
「これは、恫喝ですね。だって、体が震える。怯えていますね、私は」
 X1は頭を下げながら手を差し出す。この手を取ってと哀願するように。この手を取れと、命じるように。
「嫌なのに、嫌だといわなきゃいけないのに、私はそれでも、この手を取らなきゃいけないんですか? X1さん」
 もう、彼は何も言わない。これ以上、今の彼には出来ないから。
 彼女の泣き声が聞こえる。彼の視界に、水滴が混じる。永遠にも思える時間。血が、流れる。
「どうか、お願いします。こんな私を、殺してくれますか? X1さん」
「はい、もちろん。それでも、一緒に、居たいから」
「よろしくお願いします。私の愛する人……」
 両者の手が触れる。そして、感触を確かめるように深く握り合う。溶けあうように、溶かし合うように、これで、合意は為されたのだ。
「ありがとう。俺の愛しい人」
 いつの間にか、彼女も席を下りていた。


「そうだったんか。それは、それは、よかったなあ」
 電話先の連帯保証人の男性が、感極まっている。X1は彼に丁家の顛末を話して聞かせたのだ。
「ああ、子供達もそこで幸せにやっとるのだろ? よかった。本当によかった」
 彼は、単純にV4とV5のことが心配だっただけの様だった。X1の要求に遅滞戦術のような恰好を取っていたのも、その心配を他所に出来ない彼の精神性が故だった。
「あの夫婦も、もう、馬鹿な冒険せんだろ。田舎の空気吸って、真人間なったら、会ってやってもいいかな」
 感極まり過ぎて本題を忘れていないかとX1は心配になったが、それは杞憂で、問題なく彼は保証人としての義務を果たすと約束した。
「本当に、御迷惑をお掛けした。変な態度取っちまって、悪かったな。ちゃんと、詫びる」
「いえいえ、こうして収まって良かったです。こちらこそ至らぬ点ばかり、失礼をしました」
 それから二人は談笑し、電話を終えた。これで丁家の問題は終わり。X1は肩の荷を半分下したのだった。
 残りの半分は、リフォーム業者選び。後、肩以外にも彼には荷物が付いていた。

「X1さん? それともX1? どう呼びましょう。恋人らしい感じで……ん?」
 彼は相当な時間を、この恋人同士らしさを追求するY1の傍で過ごしていた。これはこれで、幸せなのだが、かなり、鬱陶しい。
「まあ、いつもと同じでいいですか? X1さん。では誰に伝えます? D1さんには伝えときましょうか? あと誰か、」
「D1さんたちには、言ってもいいんじゃないですか? きっと喜んでくれます」
 X1は書類を漁りながら、片手間に答える。
「それで、私、X1さんに好きとか愛してるとかって言葉で口説かれなかったじゃないですかー」
「まあ、そうですね」
「で、そういう普通のパターンもやってみたいんですけど、どうですか? やってくださいよ!」
 X1は憔悴する。自分の告白台詞を品評されるよりはきっとマシだが、別の告白文を用意しろというのも大概だと思った。
 だから、彼も欲望交じりに応戦する。
「じゃあ、Y1さんがかっこいい告白の見本みせてくださいよ。ほら、男装して俺に告白してください。それならやってもいいですよ」
「……! あ、いや、その、へ、へんたい……」
「変態じゃない」
「変態がいます。……た、たた退治しないと……」
「退治される!!??」
 Y1は彼女の鞄をゴソゴソすると、中から漆黒のぎらついた物体を取り出す。物騒なフォルム。これは間違いなく。
「やばい……死ぬ……殺される」
 雨の夜、元借金取りS1から彼女が引き抜いた、あのスタンガンだ。
「た、助けて」
「は! X1さんが私に助けを求める声がします。なぜでしょう? 多分この変態が悪いことを企んでいるからですね」
 Y1は慣れた手つきで、スタンガンの電流レベル切り替えスイッチを弄り、バチバチと電流が走らせる。
 彼女は興奮しているようで、もう手が付けられない。
「ぎゃー、たすけてー、っておおい! それ証拠品だろ!! 警察は何してるの! 通報! 通報しなきゃ! 女性に襲われてます! 助けておまわりさーん!!!」

 これは、彼が彼女を殺す物語。彼女はいつか、彼によって解放されるのだから。

エピソード5 前半 予告編



「ごめんなさい、X1さん……。今日は、すぐに帰れそうにありません。だから、せめて、貴方はご無事で」

 丁家の一件から一年後。2003年の秋暮れに、X1はY1とデートをしながら進展のない日常を思い返していた。
 退屈でも、得難い日々。理由のない盲目も、確かにここでは意味がある。

 だが、それも。今、終わりを告げる。

「ここからは今までのようにはいきません。ええ、そう簡単に平穏は得られませんよ? 親愛なる、X1さん」

 聞き覚えの有る、声がする。

 幸せに、極光に、暗闇に、目が眩み、何も見えない。

「だから、ご忠告申し上げたではありませんか」

 ただ、目前に、誰かの影が伸びる。

「だからって……何でこんな?! お前のやり方は!」

 それは、事実の終わり。そして、『現実』の始まり。

「X1さん……今日は、楽しかったです」

 エピソード5 耄碌する観照 ご期待下さい。