A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building
或る兼業大家"X1"の憂鬱
エピソード5 後半
エピソード5 耄碌する観照
Y1がZ1に連れていかれてから、三日目。X1は消えることのない非現実感に蝕まれていた。
そのお蔭か、会社で毎日感じていた筈のストレスもあやふやになり、上司や同僚との会話も、おざなりになってしまう。
「おい、X1君。大丈夫かい? 最近様子が変だが……」
「……え? ああ、はい」
部長であるM1は心配そうな様子だが、それでも彼の業務量が変わる訳ではない。
「いえ……いいえ。大丈夫ですから……その、仕事に戻ります」
「どうしたんですかー?」
隣のデスクから話しかけてくるのは、M4。M2がこのM不動産を辞めてから急激に人当たりが良くなった彼は、一年で寧ろ馴れ馴れしくすらなりつつあった。
「ああ、済みません。気にしないで」「気になりますよ! 僕、X1さんに手伝ってもらいたい仕事、沢山あるんですから」
「あはは……そりゃ、大変だ」
調子が出ない。心中不審な後輩であるM4にも愛想笑いをしてしまうほど、自分が滅入っている自覚が出来た。
「ちょっと……お隣さんと境界のブロック塀に問題を抱えてね。大丈夫、少し気を取られていただけだから……」
思わず、溜息混じりに愚痴ってしまう。そんな陰鬱なX1と裏腹に、その話題がM4の興味を引いてしまったらしく、彼が椅子ごと迫ってくる。
「え? それって、会社の業務の話じゃないですよね……? ということは、X1さんって地主だったんですか! 何処ですか、郊外ですか? 広いんですか? 何建ててるんですか? 何建てたんですか?」
「違う……はずなんだけどなぁ……」
無論、X1自身は地主ではない。借りているだけの身の上で、何故問題の解決を自分で図る流れになっているのかといえば。
「知り合いからの話なんですけど。境界になってる塀って境界線問題の温床なんですって! そういうのって双方の納得が肝心な問題らしいんですけど。線引きに不満を吹っ掛けた側が、結局条件を妥協することになるって話ですよ?」
「うわあ……そういう話の流れになりそうで、何か厭だな……。縁起でもない」
こうなったのも全て、あのZ1とかいう詐欺師のせいなのだ。許せない。
「えっ、X1さんが吹っ掛けたんですか? 当事者ですね! カッコイイ!! お隣さんに不平不満をブチかませ!!」
「まだそんなんじゃないんだけどなァ……」
真面目に助言するつもりが有るのか無いのか、勝手に盛り上がるM4にX1は頭を抱えて嘆息する。
「じゃ、頑張ってくださいねー」
M4は一通り話して気が済んだのか、仕事に戻っていく。彼に話しても、全く気が紛れないらしいことに、X1は気づかされたのだった。
帰って来ても静まり返るリビングを眺める度に、X1は今の自分が置かれた状況を思い出させられてしまう。
X1はY1が居なくなった現実を実感すると、自分がこれから何をすべきなのか判らなくなる。
Z1に言われた通りにブロック塀の瓦礫と向き合うべきなのか、そうすることが何か悪い出来事を引き寄せないか、悪い想像ばかりが脳裏を過る。
ただ待っていれば、Y1が帰ってくるかもしれないという楽観的な期待を、頭を振ることで無理やり消し飛ばす。
Z1の挑発に乗ってはならないと自分に言い聞かせるも、彼の邪悪な微笑みはX1の頭から離れない。
『彼女さんに……もう一度会いたいですよね? 勿論、このZ1が、必ず貴方の元にお返ししましょう』
X1は脳裏に浮かぶその言葉を信頼に値しないと断じつつも、その通りに動かなければならない自分自身の無力を呪った。
「……まずは、瓦礫。修理か廃棄。この場合は廃棄か? ……いや待て。あのブロック塀、俺はてっきりこの前までお隣さんの所有だとばかり思ってた。……でも、違う?」
考えてみればその通りで、隣民家の夫人が言っていた。『そちらの方』が建てた。しかも、勝手に、と。
「と、なれば俺が勝手に廃棄するのは不味いんじゃないか?」
そんなことにさえ、考えが向かないほど自信が混乱していたらしい事実にX1は面食らう。そして、部屋の書類棚をひっくり返す。
この甲物件が乗っている土地は、借地である。貸主の名はX2。X1が直接会ったことのない人物で、契約時にも現れないほどだった。
「ああ、そういえば、あの代理だって言って来てた人。何か親近感があったんだよな……、何でだったんだろう」
思い出に耽りながらも、X1は棚から『土地賃貸借契約書』を引っ張り出す事に成功したのだった。
すぐさま、契約書を検めるが、連絡先が書いていない。住所の記載は無論あるが、その場所は契約時にX1が代理の人物と会った適当なビル内の貸しオフィスだ。
「やられた……ちゃんと確認しておくんだった」
X2から土地を借りた時に利用した仲介会社の担当者に電話してみるが、「すみません、その者は随分前に退社しておりまして。お調べするのに時間がかかります……」という答えだった。
「ああ、すぐには、連絡がつかなそうだな……」とX1は少しの時間項垂れていたが。
そのうちにX1は、何とか顔を上げ、隣民家の老夫婦に相談をしに、重い玄関の扉を開いたのだった。
「また、真っ暗だ……、うっ、寒ッ……ぅ」家を出たX1は、その冷えた外気にまたしても身を固くする。
ただの寒風にも嫌気が差してしまう弱り切った心に、彼は苛立ちを覚える。
それでも何とか足を引き摺って、隣民家に辿り着いては、玄関前に立つ。表札にはG3、G4の表記があった。
呼び鈴を押しても、誰も出てこない。時刻は既に八時を回る。
「まさか、もう寝てるのか?」X1は門扉から身を乗り出して、真っ暗な庭を覗き込んだ。
「……あらら? お隣の大家さん?」暗闇の横から声がする。よく見れば細く開いた扉の向こうに小さな明かりがついており、そこから顔を覗かせた女性がいた。地震の日に会った、老夫婦の妻のようだ。
「あ、あの! こんばんは!! 夜分に申し訳ございません!! ええと、その……っ」
X1は慌てふためきつつも、どうにか挨拶の言葉を口にした。
夫人は少しの間X1を見つめていたが、すぐにニッコリと笑う。そして室内の夫に向かって、何かを告げている。
どうやらすぐに通してくれるらしいとX1はほっと胸を撫で下ろす。
夫人は扉を大きく開きつつ「どうぞ」と中に誘ってくれる。X1は礼を言いながら、中に入った。
「いえいえ……災難でしたねえ」と彼女の夫も労いの言葉をかけてくれる。とても優しそうな夫婦だ。
「あの……実はお二人にご相談したいことがありまして……」
甲物件の土地の所有者の連絡先を知らないかを、X1は夫婦に質問する。
「いいえ。隣に住まわれていた時も、引っ越しされてからも、連絡先は知らないね」
G4夫人はそう簡潔に答え、旦那であるG3も同じ認識のようだ。彼らからは分からないか、とX1は思った。
「それで、あんの瓦礫は、何時頃どけてくれるのかね?」
「あの、それで連絡先を求めている訳でして……」
「そうですか」この声はG3のものだ。
「確かに、貴方の建てた物じゃない。私らも、隣ん家の前の旦那とは知らん仲じゃあない。今更あのご夫婦が塀の一つに金を払いに来る気がしないのは分かる。なんで、面倒臭いのは無しにしよう。X1さん」
「え?」不意を、突かれた。
「だから、私らは『塀を建てたのが誰か』なんて話を忘れる。いいかい? G4……」
「ええ……いいですよ。仕様がないねぇ……」
X1は思わぬ返答に言葉を失った。
「撤去費用がいくらかかるか知らんですがね、大した額じゃないでしょう。でも、その代わり。あの塀を私らのモノってことで、片付ける。宜しいか?」
X1は何とか言葉を絞り出す。
「……ええ、しかし、いいんですか?」
G3は薄く微笑んで答える。
「いいさ」「ですが……」「構わんよ。おかしいかい?」
「ええ、怖いくらいです」
「いいや、変な話じゃあない。それはね……。『あの塀が建ってる場所は、私らの土地だから』それだけさ……、」
その後X1は夫婦に撤去費用の一部を受け持つと提案するが、柔和なやり取りと共に拒否される。
妙に浮足立つ感覚に不自然さを感じながら、夫婦の家からの帰り道でX1は考える。
自分の判断は正しかったのだろうか? 「うーん」と唸ってみるものの、これといった結論は出ない。
厭な予兆が現実になってしまったかのような、居心地の悪さを感じる。
それに、Y1の事が心配だ。彼女は無事だろか? Z1に酷い目には逢わされてはいないだろうか?
X1は二日前と同じようにY1の部屋の前で立ち止まり、扉を見つめるが、そこから人の気配を感じ取ることは出来なかった。
合鍵を差し、捻ると施錠の感覚がする。「開い……てる? 一昨日閉め忘れたかな」
鍵を回し直し扉を開くと、彼は部屋の内気を浴びる。それは締め切ったままだった部屋に相応しい、寂しげな冷え切った空気。
住人が帰らなくなった、真っ暗な部屋がそこにはあった。
X1は思わずゾクリとする感覚を味わうが、それでも目を瞑り、意を決して一歩を踏み出す。
暗闇に慣れた目に最初に写ったのは、部屋の中央に座る人影だ。
それは紛れもなく、X1が求めてやまない彼女……Y1の姿だった。
「あれ? Y1さん……こんな暗い部屋で……あれ?」
何時の間にか照明は点灯しており、彼の方に振り向いた彼女は、悲しげに笑う。
「お帰りなさい、X1さん。来てしまいましたね」
X1はそんな彼女の表情に安堵の溜息を吐いてから、少し混乱気味に彼女の名を呼んだ。「Y1さん」
すると、途端にY1の笑顔が曇る。「困りましたね……」と残念そうな声を漏らす。
「ご、ごめん。ごめんなさいっ、Y1さん! その……居ると、思わなくて……」
「ふふっ、変なX1さん」
X1は戸惑いながらも、彼女の目の前まで歩いて行く。「……あの、Y1さん。大丈夫でしたか?」
「……え、どうしてですか?」とY1が不可解そうに首を傾げる。
X1はZ1に攫われてからの事を聞き出そうとするが、Y1からは全く要領を得ない答えしか返ってこない。
「落ち着いてください、X1さん。何の事か、分からないです」
そもそも彼女からは『Z1』という名称に対して反応する様子すらない。
そうして、問い詰めていても、意味が無い事に、X1は気づく。このY1は、彼の幻想なのだ。
「大変ですね、X1さん。でも塀が建ってる土地、本当にあの方々の土地だと思ってますか?」
幻想のY1が優しくX1を隣に誘いながら、そんな話もしていないのに訊いてくる。
「え、ええと……いや、その……違う、かも」
X1は言い淀んでしまう。書類でしっかり確認したわけではない。
しかし、他人の土地に塀を勝手に建てるなんてことが、ましてずっとあの老夫婦は自分の土地に勝手に建てられた塀を見過ごしていたなんてことが、ある筈がない。
「じゃあ、あの方々の土地では無いかも知れませんね」
「……」
X1は黙り込む。すると、Y1が急に笑顔になり優しくX1の腕を抱き寄せてくる。
「ねぇ……X1さん。」
X1は頷くが、相変わらず言葉が出ない。
「何が、そんなに不安なのですか……?」
「いや……その、」
何と返せばいいか、わからない。不安だと言っても、不安などないと答えても、きっと何の解決にもならない。
するとY1は、X1の腕に自分の身体を押し付けるようにしてくる。
「そんなに不安がらなくてもいいんですよ。ねぇ、X1さん」
Y1がX1にしだれかかるように身体を寄せていく。
彼女に気圧されてX1は後ずさるが、すぐにソファーの縁に当たってしまう。
「大丈夫ですよ……何も怖い事なんてありません」
Y1はそのまま体重を乗せていくと、X1の身体を押し倒すようにして馬乗りになった。
「な、何で……?」X1は抵抗しようとするが、Y1の力が強いので上手くいかない。「ほら……もう、大丈夫です」
Y1はX1の耳元に顔を寄せたかと思うと、そのまま口を耳に寄せていく。
そして彼女はX1に囁きかける。「全部……私に任せてください」
Y1の吐息が耳にかかり、背筋が震えてしまいそうになる。自分の弱さが、このまま押し潰されても良いと呼びかけている。
しかし、「……そうは、いかない」
『この』彼女の言いなりに成る訳には、いかない。それこそ、意味が無いのだ。
「X1、さん?」「…………失礼します」今度はX1がY1を押し倒す。彼女は驚いた表情でX1を見上げる。
ここで困難に向き合わなければ、尚更自分としてY1に再会出来ない。彼女に、お帰りなさいを、言えない。
「……何のつもりですか? X1さん」
X1は彼女の目をしっかり見ながら、告げた。「お、俺は……貴女を、取り戻します」
その瞬間、彼女の異常な膂力によってX1は壁まで吹き飛ばされる。「うぐッ……クソッ! やはり違うッ!」
「……それを無力な貴方に出来ますか? もしかしたら彼女は何事も無く帰ってくるかもしれない。静かにして、ただ待っていたらどうです?」
口調が完全に変わった『彼女の姿をした何か』が、X1を詰ってくる。しかし、もう彼は黙らない。
「……いいえ。確かに、少しの間Y1さんを、お待たせするかもしれません。でも、絶対、Z1から居場所を聞き出して、迎えに行きます」
「そうですね」「X1さん!?」「こんな簡単な問題、さっさと解決して、次のデートプランでも練っていてください。そっちの方が、私は嬉しい」
『Y1』の後ろから、もう一人の声が聞こえる。それも、正しく、『彼女の声』。
彼の知っている、『彼女』の言葉だ。彼女の姿だ。
堂々と、確かに『彼女』はそこにいた。
『本当の』Y1が、『Y1』の後ろから組み付くようにX1の前から引き剥がし、床に放り捨てる。
「今です、目覚めて!!」
「はい! Y1さん!」その隙に、X1は気合を入れ、絶叫する。「おおおおおお!!!!」
すると、X1の目の前の空間が歪み、捩れる。やがて、それが一点に収束した時、そこには誰の姿もない。
その咆哮は、彼自身が誘い込んだ甘い誘惑に別れを告げるものだった。
「――ありがとう、私のことを夢に見てくれて。だから、何とかなりました」
気を付けて、X1さん――。また、会えるまで。
視界が反転する。色相が、情景が、脳の表と裏が、蘇り――。
そして、夢の扉が閉まる音がした。
「はッ!! Y1さん!!!」
すぐに辺りを見渡すが、彼に語り掛けるものは真っ暗なY1の部屋と、一陣の風のみ。相変わらずの闇夜の寒風。
その中に感じる微かな気配に、X1は。
「必ず……」
先程までそこにいた、彼女の残り香を感じていた。
窓を閉め、扉に施錠して彼はY1の部屋を後にする。
X1は、部屋に入ってからしばらく眠ってしまっていたらしい。そんな感覚がする。
すっきりした気分。だが、それは睡眠を摂った結果感じるそれとは似ておらず。
いい夢を見ていた時のそれを、彼に思わせた。
「この瓦礫の片付けは、こちらで負担します。昨日のご提案は、ありがとうございました。でも、そのお話は、無かったことにしてください」
翌日の朝。家の前の郵便受けを確認していたG3の前にX1は向い、そう告げる。
目の前にいるG3は、静かに平然とX1の申し出を聞いていた。
「そうかい……。でも、あんたにその土地をそこまでして守る義理があるのかい? あの旦那から土地を借りただけ、それだけの関わりだろう。どうせ、あの旦那に連絡はつかん。こちらの提案は悪い話じゃないと思うがね?」
あくまでも、淡々と受け答えするG3。その口調は、冷静なようにも、無気力なようにも聞こえた。
確かに、G3の言う通りなのかもしれない。だが、X1はその考えを否定する。
「はい。私は、その方と会った事も無いくらいです。ですが、だからといって『はい、差し出します』とは、言えません。私の持っていた『土地賃貸借契約書』に載っていた地積の数値を参照すると、土地の面積が貴方のお話と食い違うようです。故に、了承しかねます」
それが、X1の答え。彼は一晩使って巻尺で簡易的な測量をした。その情報を元に彼は面積の比較をしたのだった。
もちろんこれはG3の虚偽に対する証拠として、目の前の本人に突き付けられる程の信用のある情報ではない。
だが目の前の老人の持ちかけてきた提案を、X1自身が自信を持って撥ね除けるには、十分な理由になった。
「まあ、決めつけるのは結構だけどね。けど、それでいいのかい? 土地の正式な持ち主である私らの方が、図面や物件周りの証明書が揃っているんだよ。急拵えの根拠で、対抗しようとするのは、無謀だと思うけどねぇ……。それに、厄介なのは」
そう愚痴りながら、彼が地面を見つめる。そこには四角く、天辺に矢印型の文様が刻まれた、どこにでもある、所謂『杭』があった。
「そうです。境界杭! これが何よりの……!」「これが実は、役に立たないんだよねぇ」
G3が敷地から箒で地面の砂埃を掻いてやると、最初の『杭』のすぐ隣に全く別の地点を指す矢印を持った『境界杭』が現れた。
「?!」
「そうだよねぇ。ここを最近借りただけの御方が、知っているわけがない。アンタ、難儀することになるよ、なんせ……」
G3は、甲物件の土地を指さしながら言う。
「その土地の所有者は、自前の『境界杭』を周囲に大量に埋める趣味があったんだからねぇ……」
その目的は特定の文様を刻んだ花崗岩やコンクリート、果てはプラスチックの杭を配置することによる結界『御影方陣』の構成。
かの地主は呪術的な方式で土地や家族を守るために、そのようなことを勝手に行っていたらしい。
高価な花崗岩やその他素材にによって作られた杭は、通常の土地境界線を示す『境界杭』とそっくりな為、紛らわしい事この上ないらしい。
「ほら、ちょっとこうして砂利を除けてやれば、ポンポン湧いてくるんだよ。こんな機会が無い限り、土地の境界に文句を付けるのに嫌気が差すくらいには、厄介な代物さ」
「だから、面倒臭い事を全部無しにする、なんて仰っていたんですね……?」
「X1さん、悪いことは言わない。考え直すのも手だって言いたいねェ」
「でも、引き下がるわけにはいかない」「何でだい? X1さん、アンタ、何を焦っているんだい?」
Y1の事があるX1は瞭然な程、焦燥を覚えている。それは間違いなく図星ではあったが、それだけではない、とX1は考えていた。だから、彼は突いてみる。その違和感を。
「ならば……、貴方こそ。どこか焦っているのではないですか、G3さん」
X1はG3にそう問いかける。意趣返しにもならない、端的な反射。だからこそか、G3は明らかに不快感を現す。
「いや、私はね、早くこの瓦礫が片付けばそれでいいんだよ。でもねェ、それでアンタにまた済し崩し的に新しく塀でも柵でも作られて、そこが境だと、今度こそ思われたくないんだよ、分かったかい?」
G3は少々の苛立ちを声色に覗かせつつ、言い放つ。しかし、それならと、X1にも言いたいことはあった。
「それならそもそも、本当に貴方の土地であるならそういう証明書を示すなり、ちゃんと測量をするなりして明らかにすればいい。それを、交換条件を飲ませるような手口で。『御影方陣』の話も、どうせそう。ハッタリなんですよね? G3さん。貴方こそ、何かを焦っている。何を、焦っているのですか?」
ここまで話すと、G3というこの老人の狼狽が、X1にも確信できるようになる。彼は、無気力なのではない。彼こそ、無力に押し潰されているのだと。
「…………分かった。次までに資料を揃えておくとしよう。それまでに、X1さん。アンタも準備をするといい。調査士でも、測量士でも呼べばいい。そこで、話をつけましょう。……本当に、勘弁して欲しいなァ」
そう云い捨てて、G3は立ち去った。その後ろ姿は、彼が急激に老け込んだように、X1には見えた。
違和感を飲み込みながら、X1はPCや書籍で更なる土地の測量データの入手方法を検索しながら、これからどうすれば良いのかを考える。
「専門家に頼んで測量を改めて行おうか……。いや、瓦礫が片付いていないこの状況でしっかりとした測量が出来るのか? 話が付かないと、廃棄業者も呼べない。測量データを新たに作って俺の持っている資料と照らすのは後だな。次に」
次に考えられるのは、境界杭を使う手段。杭があるということは土地の登記もされていて、法務局で探せば公図は元より他に、既に公的な測量図があるという事。と、言う事は――
「測量図を手に入れられれば、正しい境界杭を特定できる。そう言えば、ここを建てる前、一度測量が入ってたな……」
G3は嫌気が差す、と発言していたが出来ることはある。X1は『公図』及び『地積測量図』を手に入れられるか、法務局に電話をすることにした。
「お電話で御座いますね。こちらオペレーター。何処に御繋ぎ致しましょうか?」
X1は普段と同様の電話をしたつもりで、どこか、不自然な人間に電話をしてしまったようだ。しかし、この受け答えは、何かで聞いたことがある。
「電話交換手?! どうして……今、2003年だよな?」
「左様で御座います。こちら、優先電話交換機構。ご連絡先をお伺い致します!」
「いや……あの、東京法務局の電話番号に掛けたのですが……」
「法務局で御座いますね! 今、御繋ぎしますゥ!」
元気のよいオペレーターの声と共に、電話交換機のジャックが繋がれ直す聞き慣れない感触をX1は覚える。
「御繋致しましたァ!」
「――こちら東京法務局です。本日は業務取扱日ではありません――」
交換手の声が途切れた瞬間、次は明らかに人間のものではない声が聞こえてくる。今度は自動音声ガイダンスに切り替わった様だった。
今日は土曜日であることを思い出し、彼は肩を落とす。むしろ常識的な状況で安心できるかも知れないが。
「――ありませんので、特別に、東京『優先』法務局にご案内致します。X1さん」
「なっ……『優先』……?!」
突如として、音声が平坦な合成されたモノから流暢な人間のモノへと代わる。
繋ぎ目の無い異様な変容。そんな経験の無い不意打ちに、X1の背筋が警鐘を鳴らす。
「それは、一体何ですか……? 何で俺の名前を……」
彼は止まらない動悸を抑えながら、精一杯の平静さで声に応対する。
「優先法務局とは、特定の何より『優先』すべき使命を持った国民の為の特別な法務局で御座います。優先法務局は、X1さんのような相応しき国民による特別な業務の円滑な遂行を目的にのみ開かれます」
「へぇ……、有難い、ですね……。あの、今から行っても、大丈夫ですか?」
「はい、勿論で御座います。優先法務局はX1さんのような『国民』の為の法務局です。こちらに着きましたら、法務局は閉じていても『優先法務局』は貴方の為に開かれていると、理解できるでしょう」
「ありがとうございます。失礼します――」
「はい。お電話対応しましたのは『暴食の一』従属、日本語対応自動応答機構デシタ――」
再び切り替わる自動音声に少々肝を冷やしながら、X1は通話を終える。何が起きているのかは未だ理解できていないが、これから東京法務局へ行けば、電話先の話が真実かどうか、分かるだろう。
そう考え、X1は家を出る。荷物は財布と仕事用の鞄。見つけた書類類。身嗜みも、整えておく。
「よし、行こう」
東京法務局までの道すがら、彼は様々な疑問を脳内で反芻する。
それは今し方起きたような、彼の理解の範疇に無い特別な状況の方ではなく。
彼が考えるに値する、疑問の方だ。
G3の違和感ある態度。震度四程度で崩れるコンクリートブロック塀。
そして、何より。X1自身もG3も連絡不能な、不在の土地貸主『X2』。
X2は今の状況を分かっているのだろうか、それとも何も知らないのだろうか。
X1は九段下駅の改札を出て、法務局へと向かう。幸い、九段下駅からは歩いて数分の距離だ。
「ここが……東京法務局……」
彼は東京法務局の巨大な建物を眺めながら呟く。
看板、というには物々しい石碑のようにそびえる、九段第2合同庁舎と書かれた目印を横目に、彼は建物の中へと入っていった。
『通常の』法務局は稼働していない筈だが正面入り口の施錠は無く、施設内の照明は点いている。
業務時間外でも、警備や清掃のために誰か居るものなのかとX1は考えたが、幾ら見渡しても人影はない。
不気味に思いながらも、X1は壁に掛かっている案内板を見た。
「ああ、何処の窓口に行けば良いのか聞いておけばよかった……。この四階がそれっぽいけど」
自分しかいない、不自然な位に静かな役所で一人きりというのは心細い。
出掛ける前に掛けた電話番号でもう一度訊いてみようか、と思った時。彼の視界に、見覚えのある黒い布。否、ローブの端がはためくのが写る。
息を呑み、X1は黒い影が消えた場所を注視しつつ謎の人物を追いかける。それは幅広で大柄な人物。
それは、Z1でも、影絵美術館で彼と共に行動していた誰とも違う誰かだ、とX1は直感する。
すぐに角を曲がることになり、そこはエレベーターホール。謎の人物はそこからエレベーターで移動したように思われた。だが、
「クソッ、どのエレベーターだ……」
偶然か、必然か。導きの如く現れた、Z1そしてY1の居場所の手がかり。逃す手は無かったが。
「撒かれたか……」
何度確認しても、エレベーター上部にある階数表示。点灯し、随時エレベーターボックスの位置を示すべきモノが動いていない、どころか点灯さえしていない。
「とにかく、何処かに行ってみるか……? ん?」
その時、X1は一つのエレベーターに目を止める。普段は気にもしない記号のステッカーが貼られたその扉。
車椅子のマークや、妊婦、杖をついた人間のピクトグラムが描かれている。
「『優先』エレベーター……! まさか、そういうことか!!」
彼はそのエレベーターの矢印ボタンをそっと押す。暫くして、『優先』エレベーターの、扉が開く。
中に入ってみれば、至って普通のエレベーター。しっかりと車椅子利用者向けの鏡を搭載した隙のない仕様だ。
しかし、階数ボタンによる行き先指定をする前に、『優先』エレベーターはゆっくりとX1に下降時特有の浮遊感を与える。
「やっぱり、このエレベーターが……」
そして、エレベーターは緩やかに減速し、停止した。そして扉は開く。
「これは……凄いな……」
X1の目の前に広がった風景は、これまでとは打って変わった別世界だった。黒い大理石の床に、これまた漆黒の壁。
法務局の内部とは思えない程の煌びやかな高級感に包まれている。
そしてX1の眼前には、画面の付いたチケット発券機のような機械が置いてある。
『く』の字型に曲がったフォルムで、手前には『証明書等発行請求機』と書かれている。
「これは……?」
X1が警戒しながら近付くと、自動でその画面が起動する。
『本日は優先法務局にお越し頂き、誠に有難う御座います。』
画面に映し出される文字や構造は、何処にでもある発券機のソレと違いはない。ただ、事前に準備していたような滑らかな対応が不気味さを際立たせている。
X1は少し躊躇しながらも、タッチパネル仕様のインターフェースに指を這わせる。
「これで、公図とか地積測量図を請求出来ないかな……」
そう思い、X1はタッチパネルを操作する。
「おっ、これかな?」
不動産登記の欄に、『地積測量図』の表記が目に入った。すかさず文字をタップする。すると、画面に住所、氏名の入力画面が表示される。
「ええと、X1……と」
次に地番、家屋番号入力画面へと遷移する。
「なるほど、ここで番号を……あっ、分かんないかも……」
準備不足を悔いるX1。そうこうしていると、横から妙に蒼ざめた地図がそっと開かれて視界に差し込まれる。その地図には、X1が入力したかった地番が記載されていた。
「あっ、ありがとうございます……。はっ、ひいぃ!!」
そこにいたのは、Z1の仲間や大柄な人物と同じ。しかし口元の露出した違うデザインの奇妙な仮面を着けた、服装が法務局の職員風の人物だった。
「いえ……お役に立てたのなら、この上ない喜びに御座います。他に何かお有りでしょうか……?」
「あ、いえ……家屋番号も入力したいのですが……」
「かしこまりました。『優先』して、お調べ致します」
そう答えると仮面の職員は、『登記部門』と書かれた区画へ消えていく。考えてみれば、優先法務局にも職員はいるよな、と彼は今更なことを思い浮かべる。
そうして意識をしてみると、複数の職員が壁際に控えていたりする。皆同一の仮面を着けており異様な雰囲気だが、利用者の補助はしてくれるらしく、X1は安心する。
「お待たせ致しました。家屋番号で御座います。御覧下さい」
「あ……、は、はい……」
X1は何が何だか分からないまま開かれた状態で差し出された書類を受け取り、内容を確認する。
「ああ書いてあるね、これを……ん?」
しかし、この書類は? とX1は紙束をひっくり返してみる。
「ああ、これウチの登記事項証明書と公図と地積測量図じゃないか。これを請求にここに来たんだ」
「そうで御座いましたか……、しかし、お渡しするには手数料をお納めいただく必要があります……。あちらの印紙売り場にて、収入印紙をお求めくださいませ……」
「ああ、ハイ……」
職員の目線の先にある場所には 印紙売り場、と擦れた文字で書かれた窓口で収入印紙が売っている。しかし室内が暗いのでこちらもかなり不気味だ。
よく見ると、人がいる。これも仮面をつけた職員が業務を行っているようだ。
X1は近づいて、まずは訊いてみることにする。
「あの……公図と、地積測量図を交付してもらいに来たのですが、どれを買えばいいですか……ね……」
「手数料450円が2回分。合計で900円になります」
仮面の職員に言われた金額を支払うと、400円券と50円券が丁寧に差し出される。
「あ、ありがとう、御座います……」
「いいえ。……印紙をお忘れの無いように」
そうして次にX1は、印紙を持って『証明書交付窓口』と書かれた受付へ足を運ぶ。そこにもしっかりと仮面の職員が佇んでいた。
「ええ……と、公図と地積測量図を下さい」
「はい。ではこちらに印紙を貼り付けて下さい。お間違えの無いようにお願いします」
「はい……」
職員から手渡された申請書に収入印紙を貼り付けていく。こんな豪華で奇妙な場所ですることになるとは思わなかった作業だが。
X1には、どこか、胸が沸き立っている自分がいるような感じがしていた。
印紙に消印が押されると、印刷の完了を待つまでもなく既に出来上がっていた図面と公図が運ばれてくる。
そこには詳細な、計測値が事細かに記されていた。しかも、しっかりと目的の境界杭の位置も載っている。
「ああどうも……ありがとうございました」
X1は礼を言って、受付から離れようとする。すると、仮面の職員に呼び止められた。
「お待ちください。今の時間……、42観様がいらっしゃっております。さらに、もっと……いえ、出過ぎた事を申しました。お忘れください」
「は、はあ……。どうも」
仮面の職員にもう一度礼を言ってX1がその場を去ろうとすると、後ろから大きな声が聞こえてきた。
「ああそうだ! 42観! 42観! 俺の事だ!! 駄目だなあ、良くないなあ、勝手に俺の事を呼んじゃあなあぁ!」
振り返ると、エレベーターで見かけた男の声が響いてくる。職員の一人を呼ぶその声には、喜びが含まれているように感じられる。
「優先法務局へようこそ、『書式の42観』様……」仮面の職員が震えながらその人物の名を呼ぶ。
42観、と呼ばれた大男は、仮面の裏側から面白いものを見るような目でX1を見つめる。そしてその後には何故か退き始める仮面の職員達。
X1がその意図を測りかねていると、職員の一人が42観に話しかける。
「42観様、その方ではありません」
「はあ? 俺が、男と女の区別も付かないと。そう言うのか、テメエは?」
「…………いえ」
頭を下げ、職員は下がる。
「この方は……その、……『優先法務局』へいらっしゃったお客様で御座います。ですから、42観様には別の御用件が」
同じような仮面を着けていても、仲間同士の会話の緊迫感ではない。X1はその場から逃げたくても、足が動かなくなっていた。
「ああそうかい!だが俺はこいつが気になるなあ? この42観様がぁ、こいつの過去が気になるって、言ってるんだよなぁ!!!! あと、そこの職員、君、過去抹消ね?」
「「え――?」」
「発出……『書式、第42の聖告』ゥ」
突然の宣告に、X1と42観の目線の先にいた職員が発した息は同時だった。
「ウグッ……!? ぐぐ……アアアアアぁ……」
職員の仮面の下の顔は見えないが、X1には分かる。苦しんでいる。先程まで自然に話していた、窓口の職員が、仮面を手で押さえながら死にそうな今際の声を発しながら苦痛に喘いでいる。
ただ、『何か』を言われただけなのに、仮面の職員は、じきに動かなくなった。
「……さん、よん、ごお、ろく、あっ、終わったなぁ。君の人生六秒で消去。情報量の少ない人生だねぇ。若いからかな? そういえば、君、誰だっけ。思い出せないや。がは、がはははッ、がひゃ! わかんないなぁ?」
「あ、あああッ……!! 死んだっ! 殺したのかっ?!」
42観と呼ばれた大男は、面倒臭そうにX1の方を向き、やれやれといった風に肩をすくめる。
「酷い言い草だ! 俺は殺ってなんかいない。こいつの過去を消した、んだっけなあ、わかんないなぁ!! 消しちゃったからかなぁ?!!」
狂ったように笑う42観。X1は、目の前で行われる悪行に戦慄しつつも、止めさせなければと思った。
「や、やめろ! そんな事をして、何がしたいんだ!」
X1の叫び声が室内に反響する。
42観はそれを聞くと、笑いを収めてX1の方へ向き直る。そして仮面の目元だけを解放し、直接X1を覗きみながら彼はせせら笑う。
「只人に話すと思うか? 馬鹿がよぉ?」
そして、42観は仮面を着け直す。X1はその行為にすら恐怖を感じつつ、何か出来る事はは無いかと懸命に頭を巡らす。
「過去を消した……なら、なんでまだ死体があるんだ? おかしいだろう」
「が、がひゃ、がひゃはははは!!! 君ッ!君って奴は! 面白すぎだろ?!!」
X1の発言に、42観は腹を抱えて笑い続ける。X1は彼を怒らせるかもしれない事よりも、彼が何故笑っているのか理解不能な事が怖かった。
「どういうことか? ああ良いだろう教えてやろう。人間全体の消去には時間がかかるのさ。表面的な基底記憶とか個人識別情報だけならすぐ消せる。だが、繋がりが解けて散り散りになったゴミ記憶とかぁ? 物質自体は情報量が多くて消すのに時間が要るんだよぉ? それだけのことが、知りたいなんてなぁ? 御目出度いなぁ?!!! めでたしめでたし!!」
「そ、そんな……そんなこと、出来る訳が無い……。現実に起こる訳が無い……」
X1は目の前が真っ暗になるような感覚に襲われながらも、なんとか意識を保つ。
42観は、何か溜息をついた後、先程までの上機嫌な雰囲気を捨て去り、冷たく周囲に言い放つ。
「おい、俺はさっき言ったよなあ? こいつの過去が知りたいってなぁ!!」
「はい! こちらに御座います! 42観様!」
一連の出来事で縮みこんでいた職員の一人が、書面一枚を42観に手渡す。
しかし、一瞬でその紙を42観は投げ捨てた。
「何だぁ、この資料は? 少ない!! 少なすぎる!! 名前と住所とか職場くらいしか中身がねえぞ! ゴミ情報が!!」
大男は怒鳴り散らすが、周囲からは職員は何時の間にかいなくなっていた。
そして次に仮面の奥から注がれる男の視線には、X1に対する侮蔑すら込められているように感じられる。
「X1? こんだけの内容の男が『優先』されるだと? 上も分らんことをする。なら、君自身に訊くしかないなぁ……」
X1が何も答えずただ立ち尽くしていると、42観が突然、X1の体に手を伸ばし、軽々とその体を通路の奥へ放り投げた。X1は大理石の床に打ち付けられ、咄嗟に頭を庇う。
「ぐっ!」
回転する視界と痛みに耐えながら、X1が42観を見上げると。彼はX1の鞄の中を漁っていた。
「何もねえなぁ? 携帯電話? メンドクセェ。もういいや。お? これは、おお、あるじゃねえか……」
そう言って彼が拾い上げたのは、鞄の中身ではない。証明書交付窓口のテーブルに置いてあった、X1が請求しなかった方の書類。その内の何か。
「あん? ん? これ、ん? テメエ、何者だ?」
42観は、X1の書面の何を見てその態度を変えたのか。X1には分からない。ただ、言えることは。
この瞬間、正式に自分がこの42観という危険な男の標的になったことだけだった。
「は? 自覚無しか? まあいいか。今から、テメエをこの『42観』様が正常化する!!」
X1は、彼にまだ何か危害を加えられた訳でも無いというのに。
まるで自分の中の何かが、跡形も無く崩れていくような錯覚を覚えた。
「心配するな? 俺は、重罪人しか削除さない。機密漏洩も何もしてないX1君はぁ? 俺様の落書き帳になって、知りたくもない『正常な世界』を見ることになるんだなぁ????!!!!」
『正常』――。その男の圧力を受け、後退りするX1には聞き覚えがある。
ふらつきながら、よたよたと足を震わせながら、42観から逃げようとする彼の脳裏に、Z1の言葉が憎しみと共に、蘇る。
『正常な世界に還してあげなさい』
その言葉を最後に、彼は誰かに会えなくなった。愛する彼女に会えなくなった。
だから、その言葉が、X1には、堪らなく厭な言葉に、思えた。
「俺は、Y1さんのいない、『正常な世界』など、望んじゃいない……」
だから、彼は逃げていた足を止め。今、この大男――、『書式の42観』に相対しているのか。
「貴様らが何をしようと……俺の、俺の想いは、消させない!!」
腰が引ける。喉が詰まる。手が震える。心が、振動する。
「俺を、消してみろ! 42観!! 出来るものなら、やってみろ!!!!!!!」
意を決したX1は42観に突撃すると、自分の仕事鞄を拾い、振り回す。
42観は、それを正面から受け止めようとする。
X1は、彼が自分に対して油断している事を理解した。
「うおおおおッ!! これを、食らえ!!」
警棒入りのX1の鞄が、42観の仮面に直撃する。X1の渾身の一撃に、彼の巨体が一瞬よろめく。
だがX1が追撃を加えようとする前に、42観も反撃に出る。X1は、42観の拳を何とか鞄で防御し、一度距離を取った。
「発出ッ、『書式、第42の聖告』! 先ずはこいつの借りた土地を正常化する!」
X1はその言葉を聞いて、一瞬時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
理解の危い頭が、役立たずな危険信号だけを響かせる。
この『書式の42観』は何を言ったのか? 何を正常化したのか?
X1は慌てて鞄を地面に置き、その中から、書類の束を取り出す。
そこには、地積測量図が確かにある。だが、それは古い三斜法を使った測量図。先ほどX1が手に入れたものとは別物に変容していた。
そのことが示す意図は一つだけ。X1が確かに知っていたはずだった、『何か』を42観は変えたのだ。
「まさか、一度あの土地を測量した『過去』を消したのか、アンタは?!」
「知らんよォ、そんな『過去』は。がひゃひゃ! 面白いだろう? 俺の、『過去を正常化する力』は!」
とてもX1には信じられない。しかし、この男は確かに過去の改竄を行ったのだ。
「アンタは、とんでもない野郎だ」
X1は驚きを隠せない。だが、同時に彼はとんでもないことに気が付いた。
「あれ……、確か、あの測量図は俺の家が建てられる直前に記録されたもの。その事実から無くなったと、いうことは、……今、俺の建物はどうなっているんだ?」
「さあね、そんなものは建造されなかったんじゃないかな? 家無しのX1君??」
「……! まさか」
X1は急いで、携帯電話を開く。しかし電波は不通。彼は全力で優先法務局を出て、自宅を確認しに帰るつもりで駆け出した。しかし。
「発出、『書式、第42の聖告』。『コイツはさっき、エレベーターを使って此処に来なかった』!」
エレベーターが、あるべき場所に存在しない。何処を見渡しても、あるのは『証明書等発行請求機』だけ。
真っ黒な壁のみが、愕然とした表情のX1を迎えていた。
「お、俺の家を、帰り道を、返せ……!」
X1は42観に力なく、叫ぶ。その姿に、もう、覇気を感じない。42観は、そんな彼に喜悦の表情で、止めとばかりに、言い放つ。
「発出!! 『書式、第42の聖告』! コイツの名前を正常化するゥ!! せめて、『正常』な姿で消えるがいい。『元』X1君!?」
その改変に晒された『彼』の身に、心理状態に降りかかった拒否感は想像を絶した。
『彼』が倒れ伏した体の周り、床一面に大量の全部事項証明書が印刷され散らばっている。その全てが甲物件が在った土地の経歴を表すモノ。
「アアアアアアァァァイイイイイイイイッッ!! 書き換え完了ッウウウウ!!!! 意識存在天元突ッ破ァ!! 書き換え掻き消えマジ真実のマジィ!」
歓喜に震え、歓声を上げる42観の足元で、見たくもない『証明』を視界一杯に焼き付けられる。存在の破壊。その証拠を。
全部事項証明書に印字されている情報の、一部が書き換えられていた……。
「こ、こんな事がっ……俺の、名前がッ!」
「マジマジの融合実在!! 過去虚構装飾の平行実現! 君は誰だ。本当の名前は? たーいへんだーなあぁ!」
全部事項証明書の権利部乙区。賃借権の表記と共ににあるはずの彼の名前。そこには。
「『X2』……嘘だ、嘘だ、違う違う……」
逆に、表題部所有者欄。そこの名前こそが。
「君は、一体誰なのでしょう? 不思議でちゅねぇぇぇぇぇぇ!!!!」
「黙れぇ!! うわあああああああ!!!! 『X1』! 『X1』! 返せ、返せ、俺の名前!!」
「がは、がはははッ、がひゃ! がひゃ、がひゃはははは!!!」
「嫌だああああ!!誰か助けてくれえええ!!」
『X2』は泣き叫ぶ。もはや、立つ事すら叶わない。彼は地面に蹲り、書式の42観に屈したのだ。
「まだです!! X1さん!」
何処かから、声が聞こえる。聞こえるはずのない、その声。名を失った『彼』を諦めさせない、誰かの声。
「漸く来たな? 重罪人! 死ね!!」
誰かが、42観と戦っている。激しく金属がぶつかる音。布の擦れる、乾いていて、風を切るような鋭い音が聞こえてくる。
「X1さん! 起きてください!!!」
「Y1、さん? また、夢なのか?」
薄目を開いた『彼』の、その眼に映った光景。それは、現実ではあり得ない。
「テメエがッ! テメエらが!! 悪いんだよォォ!!」
見えたのは、仮面やローブに切傷を受け血を流す42観が、Y1に殴りかかる姿。そしてそれを鮮やかに躱し、逆に相手の首元に鋭い蹴りを叩き込むY1の姿だった。
しかしその次の瞬間、倒れていた『彼』は42観に首を掴まれ、無理矢理持ち上げられ、立たされる。
「ぎひゃ!! この男を無傷で取り戻したいなら、自害するんだな、この男オンナ!」
そして、開けた視界には。ずっと会いたかった彼女が、疲れ切った様子でもなお微笑んでいた。
「Y1……さん……。ごめんなさい……」
「遅くなってすみません。今、助けますから」
彼女が言い終えると同時に、42観が『彼』の背後で即座に唱える。
「なら惨めに死ね! 発出、『書式、第42の聖告』! 『Y1などという人物は、存在しない』!」
42観の詠唱が大声で、響き渡る。しかし、Y1は平然と立っていた。
「何故だ、何故、俺の聖告が効かない!! 何故だ!」
「初歩的なことです、勉強不足。……左に避けて。今、終わらせます」
瞬足の一歩で、Y1が距離を詰める。「ぎひゃ! その手には乗るか!」
42観は『彼』を掴む手をY1に押し返し、楯とするかのように突き出して彼女の間合いを狂わせる。
しかし次に凶器を翻したのはY1ではない。『彼』だった。『彼』はY1が持っていたスタンガンを大胆に受け取り、スイッチを入れた。
「うああああああああぁぁぁ! くたばれ! 42観!!!!」
『彼』は躊躇なくその通電部分を自分の首を掴む男の手に押し当てる。自分も巻き添えに電撃を浴びることになるにも拘わらず、に。
「何?! うおおッ、おぼ?! ぎひゃ……」
強力な改造スタンガンの電撃が42観の手に直撃し、さらに追撃として鋭い硬質な物が彼の頭蓋に直撃する音がして、彼の意識を刈り取る。そうして42観はその場に倒れた。
「うぐぅ……ッ、う……あ、あ!!」
掴まれていたX1は感電したショックで膝から崩れ落ちる。しかし、彼の胴体が床につくことはなかった。何故なら……。
「……X1さん……大丈夫でしたか?」
そこに彼女が居た。彼の体は、彼女の腕に抱えられ、そして、『X1』の意識もまた、ゆっくりと失われていった。
次に目を覚ましたのは、Y1の膝の上だった。営業時間外の法務局、その施設内のベンチだった。
『優先法務局』ではない。そして何より――、
「X1さん。目が覚めたんですね……良かった……」
自分の事を、『X1』と呼んでくれる彼女がいる。それが、暖かくて、X1は泣いてしまう。「お、おれ、俺ぇ」
彼は泣きながら、彼女の膝に縋り付く。彼女は何も聞かずに、彼の頭を撫でる。その優しい手がまた、彼を震わせる。
「あの……ごめんなさい……」
「良いんですよX1さん。怖かったですね。あんなのとお一人で、戦って。凄かったです」
X1は戸惑うが、すぐに言葉を返すことが出来なかった。すると彼女が、思い出したように口を開いた。
「……そうだ。お腹すきませんか?」
思えば、昼食も摂っていない。もう、午後の三時を過ぎようとしていた。
「えっと、御飯、買って帰りましょうか。何が食べたいですか?」
「あのカフェのカップルメニューに再挑戦しましょう。私は、それがいいです」
「分かりました。腹を、括ります。あと、お帰りなさい。Y1さん……」
「はい。ただいまです。X1さん!」
その日は、X1とY1の忘れられない日となった。彼らは、苦しい記憶を幸せな夢で埋め尽くす。
流した涙の理由を、喜びに満ちたものに書き換えるように。
帰って来ると、そこには変わりない姿で甲物件が存在した。部屋の中も問題ない。
書き換えられた記憶の有る証明書類をY1と確認したが、それは書き換え前の情報に戻っており、書き換えの証拠も残っていはいなかった。
その日の夕方、X1が法務局で得た証明書類を持ってG3とG4夫婦の家を訪ねると、虚ろな目をした二人が出てきて、一瞬、酷く怯えた表情をした後、「もう、忘れてくれ」と言い残して、玄関を閉められてしまう。
取り付く島もない二人に呆気に取られたX1に、Y1は「もう、疲れたんでしょう。X1さんも休みましょう」と優しく囁く。
確かに、もう、クタクタだった。
翌日。物音で目が覚めたX1が自室の窓を開けると、隣の家にリフォーム業者が入っておりカーテンも全て取り払われている、ついでに瓦礫も退かされつつあった。
外でリフォーム業者と話をしているのは、自身もリフォーム業者であったはずのZ1。
「アイツ……、あの夫婦も騙したのか?」
居ても立っても居られず、X1は部屋を飛び出した。
「おい! Z1、貴様! これはどういうことだ。あの夫婦の家がすっからかんじゃないか……」
近づいてみると、やはり顕著だ。カーテンが無くなっていて、上からでも室内の様子は分かったが、家財道具が全部取り除かれ、床材も張り替えの為か撤去されている途中だ。
「何ですか? X1さん。ここは私の家ですよ? 私が自由にリフォームします」「え? 変態がウチの隣に住むの? 最悪だ……」
また、何者かに何かを書き換えられてしまったのか? X1の憂鬱は、まだ続きそうだった。
エピローグ
「身内の清算というのは、面倒臭いですね。大体、私のせいではないのですから」
嫌な臭いを発し始めた廃材をトラックに詰め、送り出したZ1は朝焼けを眺めながら独り言ちた。
彼の足元には、震度4程度では本来崩れない程度の設計だったコンクリートブロック塀の瓦礫が転がる。
それを作業員に除けて貰い、塀が建っていたことを示す黒い跡が残る地面をスコップで削り、掘り返した。
「これです、これです。はい、御仕舞い」
彼が地面の穴から取り上げた物は、プラスチックケースに入った『手紙』。その内容を検めることもなく。
Z1はその手紙を、燃やして、塵にする。
「流石ですね、彼は。『亡失の7観』だけでなく、『書式の42観』をも下すとは。『彼女』の介入があったとはいえ、これは信じざるを得ませんかね。ねえ? X1さん」
語るように、謡うように。Z1は『親愛なるX1』の事を想う。それは、まるで神に祈るように。
「さて、戻りましょうか。そろそろ、彼が起きてくる時間です」
リフォーム業者の作業を見守るZ1の顔には、いつもの余裕の表情が戻っていた。
エピソード6 予告編
『優先法務局』で『書式の42観』と遭遇し、それでも隣家との境界線問題を乗り切ってほっとしたのもつかの間の翌日。
X1の甲物件に、次の脅威が歩み寄る。
「あのぅ、あたしZ4と申しまして。ここに入居したくて大家さんを訪ねに来ました」
Z4と名乗る若い女性。繋がる過去が、彼らを舞台へ終結させる。
「恐らくこの後、彼女の入居を認めるしかなくなるでしょう」
それが定めだとでも、言わんばかりに。
「Z4を、Y1……貴様に預けたい。少しは私に協力してくれ。この程度でどうにかなる貴様らではないだろう」
秘匿組織『第六の正常』の魔が、真実を包み隠す。
「あの子が来る前に、簡単に済ませちゃお? 予定に無いけど、先にしてあげる……」
「や、やめろ……」
陵辱される意識が。
「嘘だ!! こんなの、Y1さんじゃない!!」
正体を暴かれ。
「Y1』はね、本当はX1様のことが世界で一番大嫌いなんだよ?」
混乱と共に、彼を苛む。
「だから、『Y1』と別れて、あたしと一緒になろう?」
仮にそれが真実でも。それでも彼女を、赦して見せろ。
「俺は、Y1さんと! 彼女と、この人生を、生きたい!!」
エピソード6 入居する審判者
「もう一度よく聞いて下さい? 彼女は――」
次回をご期待下さい。